哲学の主なテーマとして語られる「善く生きる」ということ。
元はソクラテスの思想より始まったことで、人は善く生きた方が良いと弟子プラトンの著書に言葉が残っています。
私はこの「善く生きる」に現代的な解釈を加えて、合理的な説明をすることが今の人の課題だと思っています。
今回は「善く生きる」の理由を探求するための話です。
現代における説得力
古代ギリシアでは、善く生きることが必要な理由を魂に関連して語られていました。
魂は肉体に還ってくる…死んでも魂だけは変わらずに新しい肉体へと移っていく。
だから魂を磨いていった方が良い。
要するに仏教で言うところの輪廻転生ですね。
それが善く生きるための理由だったわけです。
…ですが、現代において輪廻転生を信じている人がどれだけいるでしょうか?
死んだ後のことなんて分からないのが一般的な価値観です。
輪廻転生を理由にするには大分苦しい世の中になってきました。
また、「ソクラテスが言っているから」と聞いて誰が従うでしょう?
古代ギリシアならともかく、現代日本ではソクラテスの言葉よりも芸能人のテキトーな発言の方が影響力があります。
まあ、「○○が言っているから」というのは思考停止なので、そもそも私は好きではないのですが。
「善く生きる」は現代では説得力を持ちません。
善く生きるべき理由は色々な場所で語られていますが、納得のいく答えには出会っていません。
そもそも真理を突いた答えがあったら少なからず浸透しているはずです。
未だに、多くの人を善に向かわせるほどの理由は発見されていません。
そして、それを見つけるのが今の時代に必要なことなのだと考えています。
覚えることには、記憶する「知る」と、培う「識る」があります。
善く生きるの探求には、その「識る」が必要です。
善を識る
例えば、社会的には法律やルールを守ることを善としています。
が、善く生きるの善とはそういうことでは無いと思っています。
ユダヤ教には「安息日」が設けられていました。
安息日には労働が一切禁止されているのですが、食事を作るために火を起こすことすら労働と見なされます。
なので、基本的には寝てるぐらいしか出来ませんでした。
それに異を唱えたのがキリストです。
「おめーらの子供が井戸に落ちても、安息日だからって助けねーのか?お?」
至極真っ当な意見です。
何が言いたいかというと…ルールが必ずしも正しい訳ではなく、その正しいかどうか分からないものに従うのが善というのは変だよねって話です。
また、困っている人を助けるのは一部では善かもしれません。
しかし、ギャンブル依存症の人に「困っているから」とお金を貸し続けるのは善ですかね?
時には困っている人を突っぱねて、自立させることも善ではないでしょうか?
善とは真理の一つなのだと私は思っています。
私の持論では、偽善とは思考しない善です。
善いことだからと募金したら、それが怪しげな団体の資金源だったりすることもある。
何が善であるかを考える、善い行いをするなら物事の本質を見極めて行う。
それが出来るのが善人ではないでしょうか。
誰かの考えに善悪の判断を委ねた善いとされる行動は、善ではなくただの思考停止なのだと思っています。
そして、私はそれを偽善と呼ぶわけです。
悪を知る
「人に暴力を振るってはいけない」
これはなぜか?
法律で禁じられているからでしょうか?
確かに罰則が制定されていますし、法律が無ければ日常のいつどこで殴られるか分かりません。
法律で禁じられるのは当然と言えるでしょう。
ただ、それは善悪とは別問題だと思います。
人を殴ると信用を失うんですよ。
過去記事で散々語りましたが、信頼関係は幸せに生きていく上で重要です。
カジュアルに人を殴る奴がいたら、それが仲間であっても自分を殴らない保証はありません。
そんな奴と信頼関係は結べませんし、腫れ物に触るように扱われます。
疎外感半端ないです。
獣を見るような目線を向けられるのは地味に堪えますし、精神が不安定になります。
マトモな人だったら普通は人を殴らないので、知ることはありません。
私がヤベー奴で、悪行を行っていたから知ることです。
「人に暴力を振るってはいけない」
善く生きることのほんの一欠片ですが、私は悪を知ることによって善を識ることが出来ました。
まあ、襲ってきた相手をぶっ飛ばすのは暴力ではないと思っているので、今後人を殴らないということはないのですが。
悪を知り善を識るから理不尽に人を殴ったりはしないわけです。
悪を知らないこともまた無知です。
だから私は、悪を知るために悪人も観察します。
人に危害を加える人間を徹底的に分析して心理を暴きます。
それが善を識ることに繋がるからです。
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