猜疑心の取り扱い

哲学系記事

猜疑心とは人の言葉や行動を疑う気持ちです。

警戒心と違うのは根拠が弱いというところでしょうか。

警戒心は危険を回避するための本能ですが、わりと論理的な推測から成り立っています。

「言動が矛盾しているから怪しい」

と警戒するのは警戒心ですが

「私のことを騙そうとしている気がする」

と特に根拠もなく疑うのが猜疑心です。

今回は、その猜疑心を取り扱っていく話です。

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「自分のことを言っているに違いない」

猜疑心の中でも人を苦しめるのが、自分が言われていると感じてしまう心理です。

SNSの書き込みや噂話などに触れた時、自分のことを言われていると感じたことはないでしょうか?

一応言っておくと…私の記事は不特定多数に向けたもので、特定の個人に向けたものではありません。

他の人も案外そんなものです。

強い恨みを抱いたり強い執着がある人なら特定の個人を指した発言をしますが、それは一部の話です。

基本的に人はそこまで他人に興味がありません。

日本の超有名人である木村拓哉さんなら興味を持つ人は多いでしょう。

しかし、興味を持った人達が話す内容やSNSの投稿が、常に木村拓哉さんの話題というわけでもありません。

大抵の人は他人のことより自分がどう見られているかの方が気になるものです。

「自分が言われている」

この状態は一種の自意識過剰です。

自意識過剰と聞くと

「目が合った、あの子は俺に気があるに違いない」

「私が綺麗だから皆が私のことを見ている」

といった自惚れをイメージしがちですが、ネガティブな方向にも自意識過剰は存在します。

「あの人、性格悪いよね」

と言われて気にする人は、自分の性格に自信が無い人です。

自分が言われていると思う時、大抵は自分が気にしているからです。

例えば、私は私の周りでハゲの話をされても気にしません。

だって、私はハゲじゃねーですもん。

一方、電車などで

「あいつデカくて邪魔だな」

と言われたら

「やっべ、私のことかな?」

と思ったりします。

まあ、そういう時は辺りを見渡すと明らかにデケー人がいたりするんですよね。

落ち着いて周りを見渡したり、冷静に考えれば勘違いだと気がつくものです。

しかし、猜疑心が強い人は自分が言われていると思いこみがちで、根拠も無く確信を持っています。

周りから「いや、違うよ」と言われても信じなかったりするんですよ。

「いや、自分には分かる、周りが気がつかないだけだ」

という返事がかえってきます。

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第三者から見た事実と猜疑心

例えば、イジメは実際に行われている場合と猜疑心による勘違いの場合が存在します。

猜疑心を抱いている当人は、論理的な判断が出来ないものです。

かといって、周到に気がつかれないようにイジメを行う人間もいるもので、第三者が猜疑心だと断定するのは早計です。

両者の発言と行動に違和感が無いか、慎重に見極める必要があります。

また、ストーカーと呼ばれる人達は、人への執着で行動します。

人によっては怒りや憎しみを抱いたりしますが、それらも執着の一つです。

この辺の感情のバリエーションは豊富です。

執着するがゆえに、どんな形でも良いから相手と関わろうとするわけです。

直接ストーカーに話を聞くと

「もう興味なんてない」

と無関心を装ったり

「家にある物を引きとって欲しいだけ」

などと、仕方なく関わっているという体裁を持ちます。

考えの足りない人だと、ストーカーの話を聞いて

「向こうは興味無いってさ、気のせいじゃない?」

と、逆に被害者が間違っていると言ったりします。

第三者が事実と猜疑心を見極めるのは、相当難しい。

人を良く観察したり、論理的に考えられる人でないと結果を悪くしやすいです。

人の問題に首を突っ込む時は、自分の見栄とか承認欲求とか余計な感情を捨てて真剣に取り組むべきです。

それが出来ないなら関わらない方が良いんですよ。

考えなしに関わろうとすると猜疑心を増長させたり、本当に困っている人を追い詰めることになりますから。

そのうえで見分けるポイントを話すと、それは論理的な矛盾です。

感情から来る行動の場合、どちらかに必ず論理的な矛盾が発生します。

表面的な反応は参考になりますが、必ずしもアテになるわけではありません。

私もそうなのですが、演技によって他人を騙しきれる人間は存在します。

人間を良く観察する人ほど、この特技を持っています。

逆に、やたら狼狽えてしまう人もいて、本当のことを話しているのに怪しく見えたりもします。

だから、まず論理的な矛盾を探すことが第一です。

前述のストーカーの場合は「物を引きとって欲しい」という理由なら

「捨てれば良いのでは?」

「変わりに返しておこうか?」

と言ったら片付くはずです。

そこでゴネたら怪しいですし、物が片付いた後に違う理由で関わってきたら、それも怪しいというわけです。

が…実際の問題はケースバイケースなので決まったやり方はありません。

必要なのは対応力と柔軟な思考力です。

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自分の猜疑心

猜疑心は虐げられた経験から来ます。

家庭内暴力、イジメやストーカー被害などにあえば猜疑心は強くなります。

「男性に暴力を振るわれたから男性が怖い」

これは生き物なら当たり前の反応です。

しかし…論理的に考えると全ての男性が暴力を振るうわけではなく、暴力を振るった男性がヤベー奴だったという話です。

生き物として当たり前の反応を抑えて、論理的・合理的な行動をするのが「心の強さ」なんですよ。

若い頃の私は心が弱かったから猜疑心は強めでした。

心が強くなるにつれて、人に嫌われたり悪意を向けられることが気にならなくなると、猜疑心は無くなっていったんですよね。

自分に猜疑心があった事を、猜疑心が無くなってから気付きました。

今の私が猜疑心を持たないのは、人の腹の底にある悪意が読めることと、危害を加えられてもブッ飛ばせるからです。

まあ…そこまで極端じゃなくても、日頃から論理的に考えて警戒心を持っていれば猜疑心は無くなります。

警戒心も猜疑心も無い状態は危険で、簡単に騙されたり事故にあったりします。

経験則から、物事に対して漠然とした不安や恐怖を抱くがゆえに猜疑心を持つわけです。

物事を論理的に理解して、リスクを把握出来れば警戒心を持てるようになります。

最初の方の「自分のことを言っているに違いない」も、人の心理を理解するほど実体が見えてきます。

「人はそれほど他人のことを気にしていない。」

「なのに何故、人の言うことが気になるのか。」

「それは自分に心当たりがあるから」

「そして、他人の評価を気にしているからだ」

と分かってくるものです。

他人に言われてもピンとこないから、自分で考えて同じような答えを出すことが重要です。

心当たりがあることは改善や対策をすることが出来ます。

承認欲求を克服し、他者に寄らない自己肯定感を持てば人の言うことなんて気にならなくなるものです。

これは、まさに哲学ですね。

猜疑心というものは、要するに危険を回避するための初期装備です。

それは野生動物なら問題ありませんが、人の社会では粗末なもので弊害も多い。

だから、その上位互換となる警戒心を持つようになれば猜疑心は必要無いというわけです。

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