貪・瞋・痴(とん・じん・ち)

哲学系記事

仏教における概念で、人生の苦しさの原因になるものを煩悩と呼びます。

煩悩の中でも、特に根本的な原因となる三つを「三毒」と称されています。

三毒は克服が難しく、遥か昔から概念として存在しているにも関わらず、今もなお人を惑わせています。

仏教や道徳が衰退した現代日本では三毒の影響は強く、多くの人が囚われ、それを害とも知らずに受け入れています。

今回はそんな三毒、貪・瞋・痴について私の見解を話したいと思います。

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貪(とん)

貪とは強欲のことで、過剰に欲すること…ひいては欲望に支配されることを指します。

人は遥か昔から様々な欲望に囚われています。

欲望そのものが悪いわけではなく、過剰に求めることが苦しさを生むと考えられています。

例えば、食欲も欲望です。

もちろん、人は食わなければ死にますから食事は必要です。

ただ、毎日A5ランクの高級ステーキが食べたいとか思っても普通は無理です。

過剰な欲望を抱かなければスーパーの安い豚バラ肉でも満足出来ますが、高級ステーキが食べたいという欲望があると満足は出来ません。

過剰に欲望を抱くより、今あるものに満足出来る方が幸せなんですよ。

過ぎたる欲望が叶うことは稀で、大抵は足をすくわれる結果になります。

現代で特に顕著に表れる欲望は、承認欲求が挙げられます。

「クラスで成績トップになりたい」

と考えて、一生懸命勉強する…というなら承認欲求を適切に扱えてると思います。

一方で、何の能力も無く、努力もせずに

「有名になりたい」

と考えるのは過剰な欲望です。

過剰な承認欲求に振り回される状態を「承認欲求モンスター」などと揶揄されます。

承認欲求に振り回された挙げ句、問題行動を起こしてSNSで炎上…よくある話ですね。

現代において貪を克服するためには、今あるものに満足する必要があります。

出来る範囲で満足出来るように心掛けていけば、そこそこ幸せですよ。

また、別に大きな望みや目標を持っても良いんですよ。

それに向かって着実に歩んでいるなら問題ありません。

しかし、今いる場所から進むこともせず、手の届かないものを欲するのは貪です。

高級ステーキが食べたいなら節約するなり努力して収入を上げるなりすればいい。

わざわざ借金して食べるのは愚かです。

有名になりたいなら、何かを頑張って結果を出せば良い。

安易な方法に走るから炎上したり、負債を背負ってしまうわけです。

叶わぬことに手を伸ばすから変な行動をしてしまったり、時に犯罪を犯してしまいます。

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瞋(しん)

瞋とは怒りのことですが、シンプルに怒りを指すわけではなく、嫌悪や反感、妬みや僻みなどのネガティブな感情をぶちまけることを指します。

自分の意見を否定されて感情的になったり、有名人を妬んで誹謗中傷したり、誰かの発言を聞いて自分が悪く言われてると思ったりすることですね。

個人的には三毒の中で最も克服が難しいのではないかと思います。

瞋は自分も周りもネガティブにさせて、嫌な雰囲気を作ってしまいます。

心が荒んでいって幸せを感じられなくなり、欲望に傾倒してしまいます。

自衛隊で人の陰口や噂話が好きな人は、酒とパチンコと風俗しか楽しみが無い…という傾向にありました。

承認欲求が強い人も心が荒んでいる場合が多いです。

科学的な説明は出来ず経験則ですが、瞋は顔に強く出ます。

ネガティブな感情を抱きやすい人は、そういう顔つきになるんですよ。

人を見た目で判断してはいけないとは言いますが…ある程度の観察力があると分かってしまうものです。

嫌な感じのする人には誰も近付きたがりません。

必然的に関係が悪化し、人が離れていきます。

瞋の克服は心に余裕を持つことが必要だと私は考えています。

経済的に余裕が無くても、前述の貪を克服すれば心は豊かになります。

目標を追っていたりして人生が充実していれば他人がどうなろうが、何を言われようが気にならないものです。

自分の価値を自分で認められれば、他人の多様性を認めることが出来るようになります。

瞋は貪と関わりが強いと私は考えています。

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痴(ち)

痴とは正しいことを知らないこと、つまり真理を知らないことを意味します。

「努力は報われる」

という考えは根強いですが、実際に報われるのは結果に繋がった努力だけです。

結果を出すことを考えずに漫然とした努力をしても報われず苦しむことになる。

正しいことを知らなければ苦しみの原因になる。

だから真理を探究するわけです。

さらに、個人的な解釈を加えると…物事の真理は簡単には見つからないものです。

正しい情報を知っていたとしても、それを理解しているとは限らない。

例えば、利己に走るよりも利他に尽くした方が自分に利する。

利己は無知によるもので、賢い人ほど利他に尽くすものです。

しかし、これはいくら説明したところで経験と分析を繰り返さないと実感として得られません。

言葉として知るのではなく、己の価値観として理解してこその真理です。

また、分かりやすい例だと人はいつか死ぬという事実があります。

その真理を知るからこそ、いつか来る死を受け入れて人生を善く生きようとする。

いつか死ぬことは誰でも当たり前のように知っています。

しかし、その覚悟が出来ている人は滅多にいませんし、有限な人生の時間を無為に過ごしてしまいます。

3年後に死ぬと分かっていたら誰でも必死に何かをしようとするでしょう。

しかし、実際にはいつ死ぬのかなんて分かりませんから死を意識することもない。

自分が死ぬのは何十年も先の話だと漠然と考えているから、今を必死に生きない。

しかし、日本での死者は高齢者だけではありません。

明日も生きている保証はなく、自分が死なないと思っていることには何の根拠もない。

にも関わらず死を意識しないのは、自分の死という真理を理解していないからです。

…というように真理には二段階あり、知識として知ることと価値観として理解することに分かれると考えています。

知識として知ることは今の時代なら難しくはないのですが、価値観として理解するためには思考を重ねて発見するしかありません。

死を価値観として理解していれば、ちょっとやそっとのことでは恐怖を感じなくなります。

人生を空虚に感じることもありません。

私は仏教ではなく哲学によって真理を求めていますが、人生の苦しみから解放されるという点では同じことですね。

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