高名な心理学者アドラー氏は劣等感と優越感は表裏一体と話しています。
劣等感があるから優越感がある。
人は赤ん坊に対して優越感を抱きません。
赤ん坊に対して劣等感を抱かないからです。
自分が赤ん坊より優れた存在であることは当たり前なので、赤ん坊に対してわざわざ優越感を抱かないというわけです。
人に対して優越感を抱いた時は同時に劣等感ももっていて、不安の裏返しになっています。
この優越感は一過性のもので、根本的な不安は解消されないので永遠に求め続けてしまいます。
マウントを取る人
今まで数えきれないほど出会ってきましたが、マウントを取る人は常に不安が顔に出ています。
劣等感とコンプレックスに蝕まれている状態です。
断言しますが、マウントを取る人に精神的な強者はいません。
マウントは優越感を得ようとする行為なので、自分が劣っている自覚の無い人には無縁です。
他人より劣ることに不安を感じない人はマウントを取りません。
ある意味、人にマウントを取られるということは自分を脅威と感じられるほど高く評価されているということです。
自分が人に対してマウントを取る時は、相手から下に見られる不安や劣等感があると認識出来ます。
紐解いてみるとマウントという行為のアホらしさが良く分かるのではないでしょうか。
やたら他人を批判する
他人を批判することでも優越感を得ることが出来ます。
しかし、批判は様々な要因を含むため一概に優越感のためとは言いがたいです。
腐れ外道を批判することは正しい怒りだと思いますし、間違いや問題点を指摘している時もある。
ただ他人に同調しているだけの時もあります。
しかし、日常的に誰かを批判している人は十中八九劣等感に蝕まれていると考えて良いと思います。
誰かを批判することによって相対的に自分が上だと思うことが出来る。
まあ、やはり一瞬のことで根本的な不安や劣等感は解決していないから延々と批判を続けてしまうわけです。
批判をする時は同時に自分の内面の弱さを見抜かれやすく、あまりメリットがありません。
私の仕事は感情を見抜かれたら不利なので批判はしないように気をつけているのですが、強い怒りを感じた時はついつい批判をしてしまいます。
それでも弱点になり得るのですが、それが優越感のための批判だと余計につけこまれやすくなります。
極端な思想に囚われる時は、劣等感につけこまれて洗脳されているパターンが多いです。
感情によって他人を批判する時は同時に弱点をさらしているのだと認識しましょう。
負けず嫌い
議論を勝ち負けで考える人と話し合うと大抵はロクな結果になりません。
相手にとっては自分の意見を通すことが全てなので、その意見に賛同出来ない場合は平和的な解決は望めないからです。
勝負事でも何でも結果をきちんと受け止める、それが負けであっても潔く認めるというのは強者の証です。
議論をする際はお互いの意見からより良い結論を出すことが最も大切なことです。
自分の意見より相手の意見が正しければそれを認める。
それが出来ないと議論になりません。
しかし、自分の意見を通すことに優越感を感じ、自分の意見が通らないことに納得しない人は必ずいるものです。
過ちを認める、負けを認める、力不足を認めるというのは器の大きい人間だから出来ることです。
それが出来なかった時、自分の内面に弱さがあるということです。
他人は気にせず成長していけば良い
前に「他人と比較する必要が無い」という話を投稿したのですが、他人に劣っていても大した問題ではありません。
自分の上位互換になる人なんて探せば普通にいるものです。
私には警察と自衛隊出身の身辺警護員という、まあまあ珍しい肩書きがあります。
しかし、イギリスの特殊部隊SAS出身で警察のSPをやっている人も世の中にはいて比較するのもおこがましいレベルです。
哲学に関しても私より優れた思考力と表現力を持った人はあちこちにいるし、私よりレベルの高いトレーニーなんて数えきれないほどいます。
だからと言って自分が駄目だとは思いません。
私は世界で一番の存在になるためにやってきた訳ではなく、自分の人生をより良いものにするためにやってきたからです。
誰に劣っていようが関係なく、自分の人生を切り開く力を得るために成長していくだけです。
優越感も劣等感も抱かないシンプルな方法は他人と比較しなければ良い、自分の人生のために成長していけば良い。
ただそれだけのことです。
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