思想を飛躍的に進化させる方法として、他人の思想を吸収するという方法があります。
ギリシアから始まった哲学は、長い歴史の中で多くの哲学者が思想の遺産を残してきました。
また、名もなき人の思想と思想になりきれなかった残骸も世の中には無数に転がっています。
それらを喰らって自分の思想の一部にしてしまうわけです。
人の一生は短く、たった一人の知識と経験だけでは到達出来ない境地があります。
遥か高みを目指すとき、必ず他人の思想が必要になるでしょう。
ただ、哲学の道を進むなら思想を喰らっても思想に隷属してはいけません。
今回はそんな話です。
宗教思想に含まれる哲学
キリスト教の教えに
「汝の隣人を愛しなさい」
という有名な言葉があります。
これは信頼関係の始まりであり、信頼関係の大切さは私も複数の記事で説いてきました。
しかし、信頼関係の大切さを説明するのは大変です。
一言二言で伝わるものではないですから。
「神がそう言っている」
宗教の強みはその一言で解決してしまうことです。
大切さが伝わらなくても多くの人を従えることが出来る。
反面、本来の意味や理由が伝わらないまま伝播してしまい本質を見失ってしまうデメリットがあります。
また、絶対の存在という概念があると人は思考停止します。
宗教の教義に含まれる哲学を理解せぬまま盲目的に従ってしまうわけです。
宗教を拠り所として生きるならそれで良いのですが、哲学の道を行くなら隷属してはいけません。
どんなに優れた思想や教えであっても、それらは思想の材料です。
誰かの思想に従うとそれ以上先には進めません。
真理の探求は自分の思想で行うものです。
それらを理解したうえで宗教を見て考察すると、教義の中に合理的な理由を見いだすことが出来ます。
宗教の教義は歴史の長い思想です。
そこには先人の知恵が含まれています。
人に隷属しない
先にも述べた通り、思想は喰らうものであって隷属するものではありません。
よって、どんなに優れた人の言葉であっても何も考えずに従うだけでは思想の先に進めません。
人の思想を材料として、それに価値があるかどうかだけを考えたら人自体の評価は重要ではありません。
発言や思想に材料としての価値を見い出せるようになれば人の見え方が大きく変わります。
私は自分の思想の材料になるのなら名も知らぬ誰かの言葉でも喰らいます。
しかし、例え相手が神様であっても他人の思想に盲目的に従うことはありません。
これは集団でも同じことが言えます。
周りが「黒」と言っても、思考の結果「白」と判断したなら「白」と主張します。
「協調性」が無いと思う人もいるでしょうが、【自我を持たないイエスマン】はやりたい人がやれば良いと私は思っています。
真理の探求には時に暴力的なまでの自我が必要です。
これは哲学以外の何かで上を目指すときにも必要になことです。
敬意を持ちすぎない
先人や優れた思想に敬意を払う気持ちは私にもあります。
しかし、敬意を持ち過ぎると自分の思想と道が分かれた時に否定することが出来なくなります。
吸収した他人の思想を否定出来なくなると、最終的に自分の思想は消えてなくなります。
それゆえにわざと、【材料】【喰らう】【隷属】などと乱暴な物言いをしています。
他人の思想は第一に糧であると言いたいわけです。
様々な思想を吸収して、それらが相反しないということはまず無いでしょう。
思考して取捨選択をする必要がある。
相反する原因を探ったとき、どちらも否定する結果になることもあります。
実績や功績も関係ありません。
ソクラテスもニーチェもアドラーも絶対の存在ではなく、名もない一人の哲学者の思想で否定されることもある。
それは自然なことです。
【隷属せず、思想を喰らう】
これが思想を飛躍させるうえであるべき姿なのではないか…と私は考えています。
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