自省とは人の資質の中でも特に得難いものです。
自分を良い方向に変えていける人は、自分に足りないものが見えている人です。
何かが足りず、何かを恥じるから自分をクズだと思うのでしょう。
自分をクズだと本気で思える人はマトモです。
今回はそんな話をしようと思います。
クズでも成長する
私自身も若い頃はクズでしたし自信を持って言えることは、クズでも成長するということです。
ただし、自分を未熟と思える人間だけです。
人は一生をかけても完璧な人間にはなれません。
それは逆に言えば一生涯成長し続けることが出来るということです。
それにも関わらず、今の自分に慢心してしまう人は多いものです。
昔話「ウサギとカメ」に例えるなら、成長を止めた人々はウサギで成長するクズはカメです。
成長する限り、歩みを止めた人達を追い抜いていきます。
人間性は簡単に目に見えるものではありませんし、自分より高いレベルを理解し難く、即物的な利益をもたらしません。
そのため軽視する人は多いのですが、私は何より重要な部分であると考えています。
人間性は消えない財産です。
自分を本気でクズだと思うなら、少なくとも今の状況を好んではいないでしょう。
自分の問題点に気付き、変わる動機すらある状態です。
後はカメみたいに一歩一歩ゆっくり進んでいくことです。
自分がクズだと気づかぬ人もいる
自分をクズだと思わない人も多いです。
実際クズではないのかもしれませんし、単純にそう思っていないのかも知れません。
私自身も何かのバランスを崩した時、クズになると考えています。
傲慢、欲望、悪徳、悲劇思考、その他いろいろと無意識に働きかけるものがあり、冷静でいないと判断がつかなかったりします。
だから若い頃には立派な人物でも、歳をとっても立派とは限りません。
自省が出来る人であっても賞賛を浴び続ければバランスを崩します。
「絶対に自分が正しい」
という驕りは案外、周りの人が作っているものです。
私は誉められることが苦手です。
誇りと矜持で自己肯定感を保っているので、誉められることに喜ぶと自分が腐っていくように感じるからです。
人を目の前にすると、その人の相手に気に入られようとする心理が見えてしまうので余計です。
逆に相手を誉める時は、本当に思ったことを思った時にだけ言うようにしています。
仕事関係の人間…特にクライアントは世辞を使う人間を信用しない人が多いですし、そもそも私には相手に気に入られる気がないからです。
世辞を使わない方が案外、周囲が健全になります。
逆に世辞だらけの界隈のクズ率の高さはゲンナリします。
たまに自分をクズだと言いながら、まるで気にしていない人もいます。
その手の人は本心ではクズだと思っていないだけなので、肯定すると大抵はキレます。
少なからず自分をクズだと思ったら気にするものです。
自分をクズだと言いながら、本心でもクズだと思っている人は恐る恐る聞いてきたりします。
クズだと自覚したなら責められる謂れはない
少し前の話でもしましたが、人の弱さそのものを笑うのはダセーと思っています。
傲慢も欲望も悪徳も悲劇思考も弱さから生まれるものです。
人は清濁合わせ持つもので、弱さを抱く限りクズな部分は生まれます。
自分の弱さを自覚してクズな部分を恥じる人を責めるのは…それこそクズなんじゃないかと思います。
逆に自分のクズさを正当化して他人を害したりする人間に対しては、わりと辛辣に当たります。
このタイプは組織を瓦解させたり、特定または不特定多数の被害者を生みます。
長い時間をかけて更正させるより、さっさと鼻っ柱を折って周囲の被害を抑える方が合理的だからです。
クズそのものが悪いのではなく、自身のクズさを正当化するのが悪い…というわけです。
だから、自分のクズな部分が嫌なら変えていけば良い話だし、むしろ誰にも迷惑をかけないなら変わらなくても良い。
クズが存在してはいけないなんてことは無いんですよ。
私自身も強く自覚しているクズな部分はあって、それは人と争うのが好きなことです。
競争という意味ではなく、シンプルに口喧嘩や殴り合いの喧嘩です。
理性が負けることはまずありませんが、善を説く身としては中々受け入れ難いことです。
それがあるから滅多に酒を飲みませんし、無駄な争いを避けるようにしています。
少なくとも分別無く暴れたり、暴力を正当化したりしないから自分を許せている。
自分のクズな部分には向き合い方があるんですよ。
そして自省する限り責められる謂れは無いと考えています。
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