「自分の説明」は在り方で語る

哲学系記事
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誰しも少なからず誰かに理解されたいという願望と、人から良く思われたいという願望が存在します。

これらを克服するのは難しく、私も油断すると贅肉のようにこれらが付いてしまいます。

要するに承認欲求なのですが、これがあると自分の説明を誰かに聞いて欲しくなってしまいます。

しかし、自分の事を言葉で説明したいと思っても、その説明には意味がありません。

自分を説明出来るのは在り方だけです。

今回はそんな話です。

自分を説明したい人

私は記事の語りとして、自分の経験や心情を話に組み込みます。

なるべく私的な都合を省いて説明するように心掛けてはいますが、それでも100%除外出来ているとは言えません。

だから、そういう意味でも私の記事を盲信して欲しくないと思っています。

それだけ承認欲求の克服は難しいものです。

強い承認欲求に取りつかれている人は

「自分はこう思われていなければならない」

という自分像が強い人が多いです。

自分が関わることで、誰も気にしないような些細なことを気にし、それに対する弁明を話したくてたまらないわけです。

私の父親がまさにそれで、聞いてもいないのに自分の話を語り出す人でした。

例えば、海釣りが旬という話題の時

「釣りといえば昔、釣り好きの駄目な奴がいて~」

「~してやったから俺は周りから尊敬されていた」

と話を関係無い自慢話に変える。

隣のご家族の旦那さんが多芸な人で、その話の時

「俺は色々な事をやりたかったのに出来なかった」

「仕事が大変なのに、お前らは何もしなかった」

「俺はずっと我慢していた」

と唐突に被害者になる。

誰も父親の話をしていないのですが、隣の旦那さんと自分を比較されて見下されているという被害妄想を爆発させたわけです。

私の知る限り父親は休みが多かったし、ずっと家でパソコンゲームをやってたし、一人でよく釣りに行ってたし、面倒臭いという理由で知人の誘いを断って家でゴロゴロしていました。

記憶の改竄もさることながら、マトモに会話が成り立たない。

父親がどんなに自分を良く説明しても、周囲からは冷めた目で見られるようになっていきました。

自分を説明したい気持ちが強過ぎてコミュニケーションに難があるわけです。

自分を良く見せたい人

面白いことがあったとき、何かが上手くいったとき

または嫌なことがあったとき、失敗したとき

「聞いてくれよ、こんなことあってさ」

と話したくなるのは普通のことです。

ちょっとした武勇伝を語りたいというのも、人として可愛げのある部分だと思います。

しかし、承認欲求の強い人は事実をねじ曲げても自分を正当化するし、なんなら周囲にマウントを取ることもあります。

「俺は喧嘩が強い、みんな俺を避ける」

「格闘家なんて所詮スポーツだ、実戦を知らない」

などと、ガリガリのオッサンが言ってきたりするのが警備業界の面白いところです。

顔つきを見れば喧嘩出来る人かどうかなんて、大体分かるものです。

「それは通らないだろ」という話を、無理に通そうとする人は、その分だけ不安を抱えています。

周りと張り合って自分像が大きくなっていったケースが多いです。

自分を良く見せるとしても、事実ベースで語るなら私は良いと思うんですよ。

何かしら結果があって、それを人に話すのは変なことじゃないと思っています。

変なのは、他人から思われたい自分像に合わせて話すことです。

行動は雄弁に自分を語る

本当に実力があるなら立ち居振舞いに余裕があるものです。

無駄にイキったりして「自分は凄いんだ」という説明をしたりしないわけです。

私が警察時代に関わったヤクザは、見た感じ気の良いオッサンばかりでした。

「俺はヤクザだぞ!」

なんて感じの人は見たことありません。

行動は人を雄弁に語ります。

どんなに自分を良く説明しても、他人からは全然別の姿に映ります。

本当に賢い人は無駄に知識をひけらかしたりしないし、本当の陽キャは陰キャを馬鹿にしない。

本当ではなく、フリをしているから必死に説明したくなるんですよ。

私が常々「敵わない」と思うのは寛容で落ち着いている人間です。

彼らは実力があり、然るべきときに戦えるから落ち着いていられるんです。

それが何よりの「自分の説明」だと私は思っています。

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