善意の使い方

哲学系記事
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「闇雲な人助けもまた良くない」という記事に関連する話です。

善意を持つことは、本来なら良いことです。

哲学を続けていくと、いつかは善に辿り着くと考えています。

しかし、何も考えずに善意を持つのは危険です。

善意によって人が助け会う社会は理想ですが、現実はそのレベルにまで辿り着いていません。

善意は食い物にされやすく、本当に善意が必要な人に届く前に…誰かの欲望に食われてしまいます。

また、自分の評価のために善良さを演じる人が多く、善意の価値は下がり続けているので信用されにくくなっています。

簡単に言えば、善意が誰かの欲望の肥やしになってしまう。

それによって善意の価値が下がり、善意を持つ人がいなくなる。

これは私が最も懸念することです。

ボランティア

あまり知られていないことですが、ボランティアは自発的に参加することを指すもので、「無償」という意味はありません。

しかし、なぜか日本では「無償」が強調されるようになりました。

私はボランティアそのものを否定はしません。

純粋に誰かの役に立とうという気持ちは、馬鹿にして良いものではありませんから。

ただ、無償の奉仕を極端に美化する価値観は腐っていると考えています。

感謝をするものではありますが、褒め称えると間違った方向に進んでいきます。

災害の際、国や自治体に余裕が無く、ボランティアに賃金が払えないのは仕方のないことです。

それでも、誰かの力になろうとして参加してくれる人には感謝と敬意を持つべきだと思います。

ただ、「ボランティアに参加するのは良いこと」という価値観があると、思考停止して参加する人も多くなります。

「誰かの力になりたい」と考える人は色々と考えるものです。

だから迷惑をかけないようにするし、何が助けになるかを考えて行動します。

一方で

「何でもいいから良いとされることをしたい」

「良いことをしたという評価が欲しい」

という人達は、逆に迷惑になったりするんですよ。

私も災害派遣に出動して見てきたことですが…

被災者に混じって配給品を貰いながら生活し、作業にはほとんど参加しないボランティアもいました。

テントと食料、生活用品を揃えて参加しているボランティアの人とは雲泥の差です。

また、無くなってしまった2020オリンピックの話ですが、当初はスゲー数の無償ボランティアを募っていました。

「予算あるはずなのに無償なの?」

という疑問を抱きます。

私もオリンピックには身辺警護で参加する予定でした。

報酬は高額です。

あちこちの企業や事業主には結構な金を配る予定だったわけです。

それを調整すればボランティアにいくらか渡せるんじゃないの…と思うんですが、そうしない大人の事情があるみたいですね。

言ってしまえば、体裁の良い人件費削減なんですよ。

しかも、無償なのに早朝から夜まで炎天下の長時間労働です。

「誰がやるんだよ」と思いますが、実際に行われていれば大勢が参加したでしょう。

「無償ボランティア=良いこと」

この価値観があるせいで、改善されるべき問題が有耶無耶になってしまっているわけです。

思考しない善

私が色々な記事で語っている持論ですが、偽善とは思考しない善であると考えています。

善行において重要なことは「実際に誰かの役に立つ」という点です。

どういう目的があろうが、役に立つなら善。

どんなに善意があろうが、自己満足で終わるなら偽善。

だから、どうすれば役に立つか考える必要がある。

という、人によっては叩かれそうな考えです。

例えば、東日本震災の際に高額の募金や物資を送った人が「売名行為だ!」と叩かれたりしましたが、実際に現地では助かっていました。

少なくとも何もせずに叩いている人達よりは役に立っていることは間違いありません。

一方で千羽鶴を送ったという話は美化されますが、現地では役に立たないし、捨てるわけにもいかないし、置き場にも困る。

むしろ、それを運んでくるトラックで不足している物資を運んでくれという話です。

「気持ちを届ける」というのも美化されやすい価値観ですが、本気で困っている人達はそんなものを気にしている余裕も無いんですよ。

善行は形骸化されやすいものです。

実際に被災者の悲しみや苦しみなど、気持ちを救う行動をするにしても考えて行う必要があります。

歌手のチャリティコンサートや芸人のライブは、支えになったと思います。

天皇陛下の訪問に胸を打たれた人もいるでしょう。

「良いとされていること」ではなく「実際に役に立つこと」をする。

これこそ善なのだと、当時の私は悟ったわけです。

無償の善意だからこそ相手を選ぶ

例えば、「困っている人に100万円あげます」と宣伝したら物凄い数が集まると思います。

大抵の場合、本当に困っている人よりも余裕のある人の方が声が大きいものです。

経験上、本当に困っている人は優しさや善意にすがれない人が多いです。

一方で、「無償で貰えるなら貰わないと損だ」と 考える人はガンガン声をあげます。

嘘を並べて他の人を出し抜き、自分が貰おうとするような浅ましい人もいます。

だから、無造作に100万円を渡そうとしても

「食費もなく餓死寸前」

という人より

「車のローンが払えない」

という程度の人や

「自分はこんなに不幸な境遇である」

と、偽る人に渡ってしまうものです。

自衛隊時代によく相談に来る後輩は、愚痴を聞いて欲しかったり同情して欲しいという内容が多かったです。

その手の人は適当にあしらって放っておいても、特に問題は無いんですよ。

一方で、見るからに弱っている隊員に声をかけても

「大丈夫です」

しか言わない。

私も経験がありますが…本気で弱っている時は心が塞いでいるので、助けを求められないものです。

なんなら、心配されても作り笑いで誤魔化そうとする奴もいます。

私が知る限り、一番ヤバい状態のサインです。

しかし、声が大きい隊員の相手をしていると、見落としてしまうことがあるんですよ。

手が回らなくて、助けられなかった隊員もいます。

声が大きい人より、声もあげられないほど弱っている人を探す必要があるわけです。

声の大きい隊員は、私がなんとかしなくても誰かがなんとかするし、なんなら自力で解決出来ます。

アホな上司だと「大丈夫」って言ってるから大丈夫と判断して、声が大きい隊員の話を聞こうとします。

普段は

「俺は本質が分かる」

「部下は俺の家族だ」

などと綺麗事を吐き、弁が回る上司ですが…実際にはそんな感じです。

それは思考しない善…つまり偽善です。

無償の善意は見返りを求めないものである。

それは、無価値という訳ではなく尊いものです。

だから、亡者のように善意を貪る相手ではなく、本当に必要とする者に与えないといけない。

さもなければ善意も偽善になってしまう…と私は考えています。

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