有口無行とは口先だけで何もしないことを差します。
安全圏から…つまり何の責任も負わなくて良い立場から口先だけで語る人は多いです。
自己肯定感が低い人は、一方的に誰かを非難することによって得る優越感を好みます。
これは人間の習性ですが、傍から見ると醜悪なものです。
今回は、そんな感じの話をします。
他者への口出し
野球観戦をしている人が
「何やってんだよ」
「やめちまえ」
「俺ならこうするね」
などと野次を飛ばす。
他人がやっていることに口出しする人はいるものです。
では、実際にバッターボックスに立った時に打てる人がどれだけいるでしょうか。
ただでさえ時速150㎞近くで飛んでくる球なのに、軌道が変化したら私には打てません。
そもそも大観衆の中で自分の進退がかかったプレッシャーの中、いつも通りのパフォーマンスを発揮出来るかは分かりませんね。
打者がやる気無いとかロクに練習してないとかだったら非難されるのも分かるんですよ。
しかし、真剣に向き合っている人に対する野次は不当なものです。
観客は安全圏にいるから好きなことが言えます。
バッターボックスに立つことがありませんからね。
正当な意見もあれば、不当な意見もある。
状況を考慮した上での非難と感情的な非難では全く違うものになります。
私は自分や社会にとって害になる行動でないなら、なるべく口を出したくないと考えています。
自分が真剣にやっていることに口を出されるのは面倒臭いからです。
例えば、私に筋トレをやめさせたい人って昔から結構いたんですよ。
他人が努力していると不安になる人は必ずいるもので、自分が努力するのではなく他人の努力をやめさせようとするわけです。
また違う話で、日本拳法の試合はダウンを奪うのではなく、剣道のように綺麗な一本で勝敗が決まります。
それゆえに慣れた人同士では撃ち合わず、まるで居合いのように一発を狙って睨み合う試合になることもあります。
その状況の中、日本拳法をやったことない先輩がしきりに
「ジャブを撃てジャブ!」
と連呼してくる。
いや、ボクシングじゃねえんだわ。
よく知らない事に対して自分の意見を押し付けてくる人もいます。
自分はやらないけれど、有識者として心理的に相手の上に立ちたいからです。
しかし、こういう時は安全圏にいる人の話って役に立たないんですよ。
集団を利用した悪意
昔いた会社でADHDの社員がいました。
人懐っこくておしゃべりで、ちょくちょく問題を起こしますが場の雰囲気を明るくする人です。
見るからにADHDなので、厳しくしても改善しないのは分かっていたから諭す方向で促していました。
しかし、同じ職場のサイコパスに目をつけられます。
サイコパスにとって集団に好かれる存在というのは気に入らないものです。
傍目に見ても憎しみを抱いているのは分かっていました。
ある時、そのADHDの社員がヒヤッとすることをしました。
未然に終わったものの、指導が必要だなと思っていたのですが…
サイコパスが会議という名目で全員を呼び出し、休みだったADHDの社員も職場にやってきました。
そこで始まったのは指導という名の公開処刑です。
事前にサイコパスがあること無いことを吹き込んで周りを煽り、集団の威を借りて安全圏からADHDの社員を罵倒する。
ADHDの社員がやったことは大事になりかねないことだったので、私は庇うことも出来ず黙ってました。
私怨だということは分かっていたから庇えば良かったと、今では後悔しています。
それ以降ADHDの社員は萎縮して、メキメキとパフォーマンスを落としていく。
頻繁に問題を起こすようになり、それを罵倒して満足そうにするサイコパス。
その頃には私もADHDの社員を庇うようになっていたのですが、それを面白く思わないサイコパスが暗に脅迫してきます。
罵倒に加担しない私と他の社員の二人に
「取締役が評価を下げると言っている」
「二人も厳しくするなら自分が何とかする」
サイコパスは取締役の知り合いで、コネで入社したんですよ。
だから、他の社員より取締役と距離が近い。
もちろん評価云々の話は嘘です。
要するに「加担しないと評価下げるぞ」という脅しですね。
「クソ気持ち悪いなコイツ」と思ったのですが…もう一人の社員も巻き込まれたので、表向き従うことにしました。
ADHDの社員を厳しく指導した体にして、実際にはフォローしたり罵倒されないために自分の影に隠れるように誘導します。
しかし、なんとか保っていたADHDの社員も限界を迎えてバックれてしまいました。
その後始末で慌てる中、ケタケタ笑いながらADHDの社員を馬鹿にするサイコパス。
そのサイコパスと私が決定的に対立するきっかけとなった事件でした。
明らかに問題のある人物だったサイコパスですが、他の人間は皆「良い人だよね」と言っていたんですよ。
洞察力の無い人には全く分からないわけです。
集団の威を借りて一人を攻撃するのは、反撃される恐れのない安全圏から攻撃しているようなものです。
サイコパスが仕事で問題無かったかというと、そうでもないんですよ。
何か問題を起こした時は責任転嫁しているだけで、個人の対応力はADHDの社員より低いものでした。
しかし、集団の威を借りると自分の能力を棚に上げて他人を攻撃する。
この手の人はどこの集団でも見かけるもので、他者の足を引っ張りながら自分のポジションを守ろうとします。
集団に寄生する人は、集団にとって潜在的な害になるわけです。
安全圏の無責任
安全圏からの攻撃が好まれる理由の一つに、責任から逃れやすいことが挙げられます。
女子プロレスラーの方が自殺した時に誹謗中傷を繰り返していた人達は誰も責任を取っていません。
自分の投稿で彼女を傷つけていても誹謗中傷をしたのは自分一人ではない。
自殺してしまった原因が自分の投稿にあっても有象無象に隠れて責任から逃れられるし、良心の呵責も感じずに済む。
知り合いでもない人に一対一で対面して、相手を非難出来る人は中々いないものです。
それには覚悟が必要になり、リスクや結果の責任を負うからです。
しかし、有象無象に混じって誰かを非難するのは難しくなく、ネット上ならなおさら簡単です。
だから、今日でもネット上では誹謗中傷が止むことはありません。
私は有象無象の中から発言をする人の話はあまり相手にしません。
カジュアルにテキトーなことを言ってるだけだからです。
一方で、私と一対一で対面して非難する人は敵だとしても一定の敬意を払います。
安全圏から出て、リスクと責任を負う覚悟があるからです。
責任と価値は近しいもので、無責任であるほど無価値に近くなります。
例えば、有名人が誰かを非難したら話題になるし様々な反響が起こります。
その結果に対する責任を負うことになるから軽々しい行動は取れない。
価値があるからこそ責任も発生してしまうものです。
一方で、どこの誰とも分からない人が非難しても気にする人はいません。
安全圏からの有口無行は、無責任である分だけ価値を持たれないわけです。
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