「本当に優しい奴」はスゲーカッコ良い

哲学系記事
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「優しい人」と呼ばれる人はいっぱいいます。

人から好かれるため、人から嫌われないために優しくする人が多いからです。

生きていくための処世術でもあるので、私はそれを悪いとは思いません。

ただ、本当に人に優しく出来る人は限られています。

もちろん、自分の好きな人や大切な人に優しく出来る人もいるでしょう。

そうではなくて、より広い対象に対して裏表の無い優しさを持つ人がいます。

今回は、そんな話です。

優しい奴は奪われやすい

子供の頃や若い頃は、無垢な優しさを持っている人が多いです。

年を重ねるにつれて悪意や依存によって疲弊し、失っていきます。

その結果、処世術としての利己的な優しさに落ち着くわけです。

優しい人は利用されたり、都合の良い人間として扱われたり…とにかく損をする事が多いです。

裏切られたり、騙されたり、体よく使い捨てにされたりと、傷つく事も多い。

だから、優しさを失うのはよくあることですし、私自身も基本的には信用した相手にしか優しさを使いません。

何の理由もなく優しさを持つ事は難しいもので、本当に優しい人間は人格者の中でも稀有な存在です。

利己的な優しさは誰もが簡単に手に入れられるもので、一定の価値があります。

だから、それを使う人が多い。

ただ、利己的な優しさは、洞察力のある人間なら一目で分かるものです。

役者など演技のプロでもそれは隠しきれないもので、見抜ける人を相手に利己的な優しさを使うと、逆に信用を失います。

だから、賢い人は無駄に優しさを見せる事はありません。

そんな中で、心の奥に根源的な優しさを持つ人間が存在しています。

誰かに優しくするでもなく、言葉や所作から自然に優しさが溢れてくるような人です。

私はそういう人間に会った時、ただただシンプルに「スゲー」と思います。

優しさを持ち続けるのは難しい

私はよく「優しい」と勘違いをされるのですが、善良であろうとしているだけで優しい訳ではありません。

だから、わりと冷徹な判断を下したりします。

「善良さ」と「優しさ」は別物なんですよ。

優しさを持ち続けるためには、善良さとは別の強さが必要です。

子供の頃から人や環境に恵まれてきた人は、無垢な優しさを持ち続けていたりもします。

しかし、世の中の闇を知らない、強烈な絶望や身に余る苦痛を経験していない優しさは…理想論に偏りやすい。

厳しい言い方をすれば、お花畑な綺麗事になってしまうわけです。

別にそれが悪いとは言いませんし、苦労してる方が偉いとも思いません。

ただ、その無垢な優しさは…人を救うには力不足なんですよ。

優しさを悪意で返されたら、簡単に砕けてしまう程度のものです。

根源的な優しさを持つ「本当に優しい人」は、人生の中でズタボロに傷ついているものです。

誰彼構わない優しさを持つと、大抵の人は潰れてしまう。

だから、「闇雲な人助けもまた良くない」という記事で相手を限定する事を薦めています。

その中で、人格が歪む事なく、私のように冷徹さを持つ事もなく、広い心の優しさを持ち続ける人がいて…

私は、その芯の強さに崇高さを感じます。

優しさに重きを置く人

「自分の目標となる人間がいる」

「自分の理想像を目指している」

「世の中にいて欲しいと思う人間を目指す」

人間性が成長していく人は、どれかの要素を必ず持っているものです。

本当に優しい人からは

「優しい人が必要だから自分がなりたい」

「優しくありたい」

「誰かの力になりたい」

というような、何らかの強い想いを感じます。

別にマザーテレサのような聖人君子ではなく、普通に怒ったり泣いたりするし、落ち込んだり自暴自棄になったりもする。

完璧な人間という訳ではありません。

私が生きていくのに善良さと強さを求めるように、自身の優しさを追い求めている人なのだと思います。

根源的な優しさを持つ人には、優しさに惹かれて自然と人が集まります。

集まる人には依存する人もいますが、上っ面ではない尊敬と親愛の情を持った人も寄ってきます。

それは利己的な優しさを持つ人には手に入らないものです。

「本当に優しい人」は関わらないと魅力が分かりにくいし、理解する側もある程度の人間性を有していないと分からないものです。

だから特別な評価もされにくい。

しかし、そうなるまでの経緯を理解出来ると

「スゲーカッコ良いなコイツ」

と思えます。

まあ、彼らは「自分はそんなに大した人間じゃない」と思っているのかも知れません。

ただ、一部の人間は、そういう奴らのカッコ良さを認めているんですよ。

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