悪についての考察

哲学系記事
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普遍的な哲学のテーマでもあるのが善と悪です。

これまで善悪について考え続けてきたものの、完璧には程遠い答えしか出せていません。

むしろ完璧に定義する事が出来ないものなのだと思っています。

今回は特に悪について、私が出している答えを途中まで書いていきます。

カルネアデスの舟板

宗教哲学的な考え方をすれば、欲望を行動基準にする事を悪としています。

しかし、腹が減ったから食事をする事が悪とは言えません。

食べ物を盗んで食事をするのは悪と言えます。

無人島で自分1人なら何をしようが悪にはなりません。

それが、2人以上になった時に好き勝手に振る舞うと悪になる事がある。

個人的には、社会の中だからこそ悪が生まれると考えています。

それはつまり、悪とは社会に影響を与えるものであるということです。

他者の何かを侵害すること、それが一つの要素であると考えるわけです。

具体的には安全、財産、権利、名誉などを侵害する行為ですね。

ところが、それが悪にならない場合もある。

例えば「カルネアデスの舟板」という話があります。

難破した船の板に二人の男が捕まって漂流していた。

「このままでは板が沈んで二人とも溺れてしまう」

と、片方の男が考えた結果、もう一人を突き飛ばして溺れさせてしまったという話です。

この話では生き残った男は有罪になりましたが、現代では「緊急避難」が適用されるので罪にはなりません。

自分の権利を守るためにやむを得ない場合、他人の権利を侵害する事が認められるわけです。

厳密には違法と悪は別物ですが、この話は悪を識るうえでのヒントになります。

他者から見た悪

前述の内容から、欲望に従って他者の何かを侵害した場合が悪ではないのかと思うかもしれません。

しかし、それもまた一つの要素でしかない。

見方によっても悪の要件は変わるからです。

例えば、相手に危害を加えたい欲望によって相手を殺害した。

これは悪であると言えます。

では…

病気で苦しんでいる友人を憐れに思って殺害した。

これはどうですかね?

欲望ではなく善意の殺人です。

友人がまだ死を望んでいなかった場合は権利を侵害しています。

私はこれを悪であると考えています。

独善的という、主観に偏った考え方によって起こる悪です。

条件を変えてみます。

友人が死を望んでいて、自分も友人を殺したいという欲望があり、利害が一致したので殺した。

これはどうでしょう?

私は悪とは思いません。

欲望から来る行為ですが、権利を侵害していませんし、相手の望みを叶えています。

では…

死を望んでいる友人がいて、その事を知らずに欲望から友人を殺した。

これはどうでしょう?

判断が難しいと思います。

自分目線では悪ですが、友人からすれば悪ではありません。

客観的に見れば、友人の心情を知らなければ悪であり、友人の心情を知っていれば悪とは言い切れない。

暗に利害が一致してますからね。

では最後に…

欲望によって死を望まない人を殺害したが、それによって多くの人命が救われた。

主観的に見たら悪、客観的に見ても悪、しかし俯瞰的に見たらどうでしょう?

個人的な考えでは、完全に悪とは言い切れません。

主観、客観、俯瞰によって悪の要件は変わると考えています。

なぜ善悪について識る必要があるのか

完璧に定義が出来ないはずの善悪ですが、大抵の人は善悪を個人の裁量で判断しています。

私自身も前述の例題に対する回答で、個人の裁量による判断をしていますね。

なぜそれが出来るのか?

正確に善悪を区別出来ているのではなく、今までに培った価値観から善悪を判断しているというだけです。

言ってしまえば、個人のセンスで決めているわけです。

当然ながら、そのセンスは善悪について深く知るほど磨かれていきます。

例えば、炎上した有名人を大勢で叩く行為。

これを行う人の中には、本気で自分が正しいと思っている人もいます。

しかし、私から見れば悪でしかありません。

批判と他者への攻撃は別物です。

社会への影響を考えて批判する事と、悪い奴だから叩いて良いという考え方は全く違いますからね。

善悪を識ろうとしないと、自分の間違いにも気がつかないんですよ。

世の中を俯瞰的に、より正しく見るためには善悪の探求が不可欠です。

これは人生哲学にも深く関わってきます。

社会をよく見通せるほど人生哲学は優れていきますし、その間にも善悪の判断は必ず付きまといます。

そのためにも善悪を識り、センスを磨かいていく必要があるわけです。

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