常々考えていて、いまだに明確な答えを出せていないのが「平等」です。
アップデートする毎に考え方も変わっていくものですが、平等については考える度に答えが変わると言えるぐらい複雑なものです。
人は格差に不平不満を抱きやすいもので、平等という理想に引き寄せられます。
ただ、その平等は明確な形が無い、雲のようなものだと考えています。
今回は、そんな平等の話の一つです。
思いがけず、クソ難しい話になってしまいました。
向上する意欲
資本主義は自由競争を目指して「勝ち取る平等」のある社会になり、貧富の格差が増大しました。
共産主義は相互扶助を目指して「与えられる平等」の社会になり、実質的に崩壊しました。
今、共産主義や社会主義を名乗っている国家も経済活動は資本主義で、貧富の格差は増大しています。
人は与えられる事に慣れると、勝ち取る事をせずに要求ばかりするようになる。
かといって、勝ち取る事ばかりに慣れると弱者を軽視するようになる。
前者は共産主義、後者は資本主義の特徴をよく表しています。
強者が弱者に奪われる共産主義と、弱者が強者に奪われる資本主義。
自然の摂理的に資本主義は正しいように見えますが…
社会の発展を考えた時、やはりどこかで崩壊するシステムだと思います。
自分がどんなに頑張っても、周りがテキトーだと生活が向上していかないのが共産主義です。
自分や他人のために頑張れるような人ばかりでないと機能せず、全体的に向上する意欲を失っていきます。
逆に能力や人脈が無いと這い上がれないのが資本主義。
貧富の格差がありすぎると、貴族と平民、または奴隷のように生まれた時から身分が固定されてしまって、向上する意欲を失います。
社会の発展には向上する意欲が必要で、平等は向上する意欲を持つためにあるべきだと私は考えています。
だから、皆が向上する意欲を持てる社会こそが平等な社会というのが基本的な考えです。
平等の形
日本で良く言われる平等は「与えられる平等」が多いです。
だから、弱者が「不平等だ!」と叫んで不当な要求をする事が一般的です。
何が不当かって話ですが…
例えば、スゲー勉強を頑張ってるのに正しく評価されず、成績が悪い。
だから、「正しく評価しろ」と要求する。
これは正当な要求です。
逆に、全く勉強しないのに
「自分は30点なのに100点の奴がいるのはズルイ、同じにしろ」
これは不当な要求だと私は考えます。
与えられる平等だと、後者の場合で不平等が叫ばれる事が多いんですよ。
前述の通り、この考え方だと与えられる事に依存して向上する意欲を失います。
一方で、弱者を切り捨てる社会でも社会的弱者が向上する意欲を失います。
どうあがいても下層から抜けられない社会では、頑張るはずがありません。
貧富の格差が進むと社会的弱者が増えるので、どちらにせよ社会は衰退してしまう。
基本的に平等は誰かの足を引っ張るものではなく、底上げをするものだと考えています。
出る杭は打たれる社会だと発展しないですからね。
しかし、ただ単に与えるという方法で底上げをすると不当な要求ばかりをするようになる。
だから、自ら勝ち取ろうとするように底上げする必要があります。
例えば、一定以下の所得者に対する学費や資格取得費用の免除とか、選挙出馬費用の負担とか、起業リスクの低減とか…
生活を向上させるために使える、方向性を限定した給付ですね。
まあ、これは予算を一切考えずに言っているので実現可能かどうかは分かりません。
今でも似たような事は行われていますが、条件が厳しく、知名度も低いので利用は少ないです。
向上する意欲を持たない人は調べないし考えないので、それらの情報には辿り着かないからです。
能力に頼らずシンプルに頑張れば生活が向上するし、頑張らなければ向上しない。
…という分かりやすい社会なら、向上心も起きるし、あまり不満も起きないでしょう。
能力主義に偏るのも問題なんですよ。
能力の低さは後天的に補う事が出来ますが、大抵の場合は10代で進路が決まってしまいます。
初期能力が低かった人が10代でどうにかするのは難しいですからね。
全ての人が勝ち取るために行動すれば勝ち取れる。
逆に、まともに行動しなければ勝ち取れない。
能力が不要という訳でもなく、それは違う形で活かせる。
そういう社会が平等なんじゃないかと思っています。
ただ、考えてみれば日本って不完全ながら、わりとそれに近いんですよね。
上手くいかない原因は色々と考えられますが、そもそも勝ち取ろうとする意識が全体的に低いのではないかと考えています。
与えられる事を当然の権利と考え、自らの力で勝ち取れないものを不当に要求し、与えられない事に不満を持つ。
この価値観、「与えられる平等」は呪いだと思っています。
それによって、前に進む事をやめてしまう人があまりにも多い。
主義主張に関係なく、人生は勝ち取っていくものです。
それは、ただ喚いて不当に要求する事でもないし、他人の足を引っ張る事でもない。
「間違っている」と叫ぶだけで何もしないのは、ただ与えられるのを待つ鳥の雛と同じです。
自分の希望を叶えたいなら結果を出す。
結果を出すために考えるし、苦しさに耐えて努力をする。
そういうものです。
社会は相互扶助から始まりました。
狩りをする人が肉を取り、手先の器用な人が道具を作り、協力し合う事で一人よりも効率良くしたのが社会です。
社会の一員として恩恵を受けるためには、誰かに何かを与える必要がある。
何もせずに与えられる…それは不平等であると考えています。
かつて社会の一員の座も、勝ち取るものだった。
本来は、生まれながらに与えられるものではありませんでした。
社会が複雑化して基本の部分がぼやけてしまいましたが、自らが社会に貢献するからこそ社会に助けて貰えるものです。
だから社会の中で、自分の価値を勝ち取る。
これは社会に生きる上で前提となる事です。
理想の社会
全ての人が自分の価値を確立し、お互いに助け合う社会。
平等はそれを目指していくもので、不満を解消するためではなく向上心を持つためにあるべきだと考えています。
だから、弱者を軽視することも、一方的に与える事も平等にはならない。
自ら価値を勝ち取ろうとし、お互いに助け合う。
強くて良い人ばかりの社会、それが理想の社会だと私は考えるわけです。
で、これは社会主義思想の理想形なんですよ。
だから、思想自体はそんなに悪いものでは無かったと考えています。
しかし、社会主義・共産主義思想に傾倒する多くの人は、「助け合う」のではなく「与えられる」ことばかりを考える人が多い。
そのため、不当に要求して与えられようとする呪いにかかる。
日本の教育もそちらに傾いているので、無自覚にそうなる人が多いです。
自ら這い上がろうとせず、救われる事ばかり考えて要求するだけの弱者になってしまう。
それがあるから、私は社会主義や共産主義が好きではないわけです。
実際、「平等」を口にする人の多くは何かを要求する時に使っています。
要求が通らなければ過激化し、暴言を浴びせる。
そこに「助け合い」の精神は見られません。
理想の社会に至る手段である平等。
平等は、向上しようと頑張る人の障害を払うために使われるべきです。
しかし、私的な要求の正当化に使われてしまいやすい。
平等を扱うために必要な事は、まず人間性を育てる事なのだと思います。
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