否定の剣、肯定の盾

哲学系記事
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深い意見というものは考える人から出てきます。

特に掘り下げた肯定意見は難しく、それを言えるのはよく考えている証です。

逆に否定意見は言いやすい。

ゴリッゴリの感情論でもそれっぽく見えるからです。

ただ、否定は剣であり肯定は盾です。

人と接する時は、それを理解している必要があります。

今回は、そんな感じの話です。

意見とは思考の副産物

例えば、映画を見た後で感想を聞かれた時、多くの人は

「面白かった」

「凄かった」

というテンプレートの回答をします。

別にこれが悪いわけではなく、むしろ長々と語るよりはシンプルで伝わりやすい。

では「深く語ってくれ」と言われた時、大抵の人は返答に困ります。

それは映画を見ながら考えていないからなんですよ。

その場で考え始めるから返答に困るわけです。

考える人は何かをしながら考えるものです。

映画を見ながら、本を読みながら、人と話しながら考えます。

めちゃくちゃ考える人は、考え過ぎて話を聞いていなかったりしますね(笑)

映画を見ながら色々と考えるから、感想もスラスラ出てくる。

逆に、考えなければテンプレートの回答しか頭に浮かばない。

先にも述べた通り、それ自体は悪い事ではありません。

ただ、その中には通に見られたい人もいるものです。

テンプレートの回答だと有象無象と同じになる。

しかし、考えていないから深い意見が出せない。

そうなると、出てくる意見の多くが否定になります。

肯定意見よりも否定意見の方が通っぽく見えるんですよ。

「この映画が評価されるなら日本の映画界は明るい」

これは、何も考えていない肯定意見です。

「こんな映画が評価されるなんて日本の映画界に先は無い」

これは、何も考えていない否定意見です。

どちらも映画通ぶってテキトーな事を言ってるだけなので、見る人が見れば一発で分かるでしょう。

で…文字だけだと大差無いように感じますが、否定の方が圧倒的に言いやすいんですよ。

そこで話を切って捨てられるので、堂々と口に出来るから説得力があります。

肯定意見だとそこから話が広がりやすいので、話に詰まりますからね。

実際、世に出ている否定意見は論理的とは言い難いフワッとした感じが多いです。

その中には通ぶりたい人達によって大量生産された否定意見が多く混じっていると私は考えています。

要するに

「大して考えてないけど通ぶりたい人は、やたら否定する」

という事です。

しかし、考えが深くなると否定意見って覆るんですよ。

例えば…当初、私は自分の弱さで他人を害する事を否定していました。

しかし、弱さは誰しもが持つもので、簡単に捨てられるものではありませんよね。

否定したぐらいで害する事をやめられるなら、そもそもやらないんですよ。

だから

「じゃあ、人の弱さを変えていかないといけないな」

と考えるようになったわけです。

何かを否定する時に違和感を感じたら、それはまだ正解に辿り着いていないからです。

一度、否定意見が頭に浮かんでも、見方を変えたり深く考えると簡単にひっくり返るものです。

しかし、短絡的に否定をしてしまうと引っ込みがつかなくなる。

否定は剣です。

少なからず誰かを傷つけるから、後から無かった事には出来ない。

相手の苦労、努力、境遇、思い、などを知った時、否定した事を後悔する事もあるでしょう。

だから、慎重に扱う必要があります。

深い意見ってのはすぐに出ないんですよ。

なぜなら、意見は思考の副産物だからです。

思いついた事をすぐに結論にしないで、精査と反証を繰り返し、掘り下げて考えていくほど深くなっていくものです。

だから、否定をするなら一度考えてから否定する事をオススメします。

否定の剣は軽い

正しい事を肯定し、間違っている事を否定する。

論理的であるほど、これを絶対的に正しいと考えるのではないでしょうか?

まあ、理想上はそうだと私も思います。

ただ、人間は絶対的な真実…つまり真理には滅多に辿り着けません。

人が正しいと思う時、それは真理ではなく自分の正義や他人の考えを基にしている事がほとんどです。

絶対的に正しい事が分からないなら、肯定と否定ってかなり曖昧な使われ方になるんですよ。

人は本当に正しいから肯定する、本当に間違っているから否定するわけではないという事です。

現時点の自分の価値観で、正しいと考えるから肯定する、間違っていると考えるから否定する。

または自分に都合が良いから肯定する、自分に都合が悪いから否定する。

こんなところではないでしょうか?

じゃあ、肯定と否定はどう使うのが正しいのか。

私は上記の使い方の他に、自分の正義に基づいて…

「正さなければならない事に否定を使う」

「守らなければならない事に肯定を使う」

と考えています。

否定は剣、肯定は盾という考え方です。

例えば、誰かの嘘に気付いた時。

私は一々暴こうとは思いません。

人は誰しも嘘をつく。

それは人間らしさから来るもので、ちょっとした見栄だったり、誰かの為だったり、やむを得ないものだったりします。

嘘が多いとシンプルに信用を失うものですが、全く嘘をつかない人間は存在しません。

私も嘘をつかない訳では無いですし、大事な部分だけ正直でいられれば良いと思っています。

私は自分の正義を追求しますが、重箱の隅をつつくように正そうとするのは逆に面倒臭いです。

無闇に否定の剣を振るって、可愛気がある程度の嘘をつく相手を傷つける方が問題です。

否定を使うべきは、その嘘によって苦しめられる人間がいた時です。

誰かの何かを奪う、誰かを傷つける、誰かを貶める。

そんな嘘を私は否定します。

これは私の正義に基づく考え方なので、人によって考えは変わるでしょう。

シンプルに気に入らない物全てを否定する人もいれば、歪んだ認識で判断して否定する人もいますしね。

この話で何が言いたいかというと…

こういう風に、人は誰もが自分の価値観で否定を使う。

だから人が使う否定はわりと軽いし、人によってはスゲーいい加減です。

だから、否定されても大した問題ではありません。

ただし、自分の正義を追求するほど否定は重いものになっていきます。

そして、自分の正義を追求する人ほど誰かを傷つけるためではなく、問題の解決のために否定を使うものです。

他者の心を守る肯定の盾

たまに相談が来ますが、イジメ問題のフォローは難しい。

例えば

「自分をいじめる奴はブン殴れ」

これは実際に効果のある解決方法の一つなんですよ。

ただ、それが出来ない人にはトコトン出来ないものです。

出来ない人にそれを押し付けると

「自分は駄目な奴なんだ」

と、逆に落ち込ませる事になります。

相手をブン殴って解決するには、まず本人が心も体も強くなる必要があります。

解決方法が正しくても、過程をすっとばすと間違いになる。

私はこれを「正しさの押し付け」と考えています。

また、被害者は誰かによって

「いじめられる奴は心が弱い」

と追い討ちをかけられていたりします。

実際にそうとは限らないのですが…

その意見を否定したところで被害者の心は軽くならないから、今の状態を出来るだけ肯定する必要があります。

厳しさと嘲笑う事は違います。

厳しさは解決に向かわせるための手段です。

この問題の場合は、単純に否定する事によるマウントですよね。

私は弱っている人には盾が必要だと考えていて、盾が必要な人には全肯定です。

弱っている人は一時的に自己肯定感が低くなっているので、他者からの肯定が必要だからです。

肯定は正しさだけに使うものではない。

他人の心を守る盾でもあるわけです。

私がブログに書く内容は私のスタンダードな考えですが、人と接する時は肯定と否定の割合が変わります。

不特定多数に対するブログと違って、個人に対する言葉は格段に重くなる。

どんなに間違っていたとしても、弱っている相手に否定を使ったら潰れてしまいますからね。

感情を考慮しない論理より、感情を視野に入れた論理の方が合理的なんですよ。

だから人と接する時、私は否定の剣より肯定の盾を好みます。

誰かの言動によって否定された時。

怒る人は報復を望みます。

その場合は冷静になるまで話に付き合えば良いし、問題を解決する必要があるなら否定の剣を使う事もあるでしょう。

一方で、落ち込んだ人は報復を望まず、誰かの優しさを求めます。

だから、落ち込んでいる人の為に否定の剣を振るっても、その人を助ける事にはなりません。

そういう時、必要なのは肯定の盾なんですよ。

落ち込まないで欲しい

何度もブログに書いてる事でスゲー気にしてる事なんですが…

人はそれぞれ生きてる状況が違います。

本当に一人一人に向いた意見は、直接その人の話を聞かないと言えないものです。

だから、私の哲学はあくまで参考程度に考えて下さい。

私は自分のブログが誰かの役に立って欲しい。

それが誰かの重荷になったり無用に傷つけるのはシンプルに嫌なんですよ。

苦しんだり自分を追い詰めるぐらいなら無視して欲しい。

正直、私もテキトーな事を書きたくないから考え抜いて書いているし、それなりに説得力があるのも分かっています。

それでも、正解とは限りません。

あくまで私が出した答えに過ぎない。

私は自分の人生と一生懸命に向き合って生きてる人達に、怖がられるだけでも実はヘコみます。

落ち込ませてしまったら尚更です。

ブログを書き始めて一年、気がつけば閲覧数は増え、心根の優しい人達が共感して色々な形で発信してくれるようになりました。

私の知らない所でも誰かが誰かの為に使ってくれているかもしれません。

正直、そういう人達には死ぬほど感謝しています。

だから、落ち込まないで欲しいんですよね。

私は自分が理解している事を他人がどこまで理解しているのか計りかねている所もあります。

だから、言葉足らずな部分もあるでしょう。

少なくとも、私は誰かを傷つける目的の発信をしてはいないんですよ。

仮に傷ついた人がいたとして、私がその場にいたら

「いや、違うよ」

「こういう事だよ」

って補足説明すると思います。

どんなに手を尽くして考えを巡らせても、不特定多数に正しく伝えるのは難しいんですよ。

内容が複雑になるほどそうですね。

誰かに問題を正しく伝えようとするほど、違う誰かが傷ついてしまう。

これは私の力量不足です、申し訳ない。

もし、私のブログを読んでやり場の無い怒りや辛さを感じたら

「死ねー!」

って私に向かって発散してくれて構わないです(笑)

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