自分と他人の境界線

哲学系記事
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人には物事を理解する時に様々な境界線があり、これらは人によってかなり曖昧です。

最近、記事を書くうえでの悩みのタネがこれなんですよ。

私自身の思考回路や精神構造が特殊な事もあって、伝えたい事が変に誤解されやすい。

自分と他人には様々な境界線があって、その位置は人によって全然違う。

今回はそんな話です。

価値観の境界線

私は他人がどんな考えをして、どんな意見を持っていても気にならないんですよ。

自分と他人は違う存在である事を理解しているからです。

私が生きている人生と他人が生きている人生は違いますからね。

例えば、漫画「グラップラー刃牙」の登場人物である「花山薫」の名言で

「鍛える事は女々しい」

というものがあります。

強者として生まれた自分は鍛える事が女々しいという美学から来る言葉ですね。

でもそれは花山薫が強者だからです。

もともと弱者として生まれた私の場合は

「何も出来ないのに鍛えない方が女々しい」

なんですよ。

無力感を死ぬほど味わってきたから「鍛える」という事が私の人生の主軸になっています。

人の数だけ正解があるわけです。

だから、私は自分の生き方を他人に強要する気はありませんし、私と違うから「間違いだ」と言う気もありません。

社会問題みたいに共通したテーマならともかく、個々の生き方は不可侵領域ですからね。

思想のフリー素材ですし、私の記事は参考程度にして欲しいわけです。

ただ、自分と他人が明確に違うと認識している人は意外と少ないのではないか?

もしかしたら私がかなり特殊なのではないか…と最近は考えるようになりました。

自分にとっての正解と他人にとっての正解が同じだと考える。

これって境界線が曖昧な状態なんですよ。

この状態は肯定意見ならともかく、否定意見はスゲーぶっ刺さってしまう。

他人の否定が、まるで自分自身から否定されたように感じてしまう。

例えば、筋トレを否定する人がいても私は気になりません。

その人には不要でも私には必要というだけです。

でも境界線が曖昧だと、他人が筋トレを不要と言ったら自分にとっても不要のように感じてしまうわけです。

境界線が曖昧である事は一長一短ありますが、個人的にはキツそうだなと思っています。

距離感の境界線

私にとって交友関係と呼べるのは現実で会って話す人までです。

これ、なんでかと言ったらネットに深入りしていなかったからです。

私がSNSに初めて触れたのは1、2年前です。

それまでは主に自衛隊の中で悪ふざけをしたり殴り合ったりしていた私にとって、ネットでの交友という価値観が無かったんですよ。

だから、顔も知らないし直接話した事も無い人を友人知人とは思えない。

この部分の感覚は極めてジジイなんですよね。

まあ、ネットに触れて来なかった人は同じような感覚だと思います。

もちろん、他の人の感覚が違う事も理解しています。

だから、交友関係は人それぞれです。

現実とネットの距離感は人によってかなり曖昧です。

人によっては

「Twitterで相互フォローした人は友人」

ぐらいの感覚だったりしますからね。

それだけでなく、若い人の間ではSNS上だけで恋愛関係にもなったりする。

それが良い悪いという事ではなく、そういう時代になってきたという話です。

人によって距離感が曖昧ですね。

例えば、私にとって芸能人やYoutuberは、会った事がある人以外は画面の向こうにいる別世界の人なんですよ。

しかし、SNS上では同列に存在します。

そのため、今の人のネット感覚だと知り合いぐらいに思っている人も多いのではないかと考えています。

安部元首相に雑談みたいなリプライを送る女子高生がいるぐらいですからね(笑)

ネットの距離感というものは人によって違い過ぎていまだによく分からんです。

認識の境界線

「人を鉄パイプで殴る奴は悪い」

と言われたら、自分の事だと思う人は少ないでしょう。

では

「人を傷つける奴は悪い」

と言われたら自分の行いをふりかえる人も多いのではないでしょうか?

具体的に話すほど対象は限定され、抽象的に話すほど対象は広くなるわけです。

抽象は自分の価値観で具体化します。

私の場合

「意図して深刻な害を与える人間を除く」

「悪意が無い場合を除く」

「事の軽重による」

という経験から定めた基準で具体化するので、自分が責められている気にはなりません。

抽象を具体化出来ないと、抽象的に話された事のほとんどを自分が言われているように感じてしまいます。

自分のした愚痴やうっかりした失言まで捉えて、「自分の事を言われている」と感じてしまったりする。

これは私が記事を書くうえでの悩みの一つです。

具体だけでは非常に限定的で長くなり、不特定多数の発信ではなく特定の誰かへの手紙のようになってしまう。

だから、不特定多数へ向けた話は抽象的に話す必要があります。

しかし、問題について言及したら多くの人が気にしてしまう。

前回出した「善への転化」という記事で久しぶりに殺害予告が来たので、結構気にしている人も多いのかと思います。

広報官時代に担当した子からパワハラの相談を受けていて、若干キレながら書いてしまったから細部が雑でした。

私が知る悪性の強い人というのは存在自体が害悪みたいなドクズなんですよ。

私が出した条件は全ての人に当てはまるわけではありません。

気にしてしまった人には本当に申し訳ないです。

で…自分と他人では、抽象の境界線が曖昧なんですよ。

例えば、私がよく使う「頑張る人」というフレーズは客観的に見て頑張っている人です。

しかし、私から見て頑張っている人でも、自分目線で「自分は十分頑張っている」と思える人はそんなに多くありません。

でも、日々真面目に仕事をしたり、様々な活動に従事したり、家族を養ったり、誰かの力になったり…「頑張る人」ってのは特別な存在ではなく普通にあちこちにいる人なんですよ。

ただ、頑張っている自覚が無いだけです。

でも、これを毎回説明していたら文章が死ぬほど長くなるし、周りくどすぎて読む気が失せますよね(笑)

こういう感じで、全体の流れを重視して具体的な説明を省く事がよくあります。

私にとっての頑張る人は上記の通りですが…

人によってはスポーツ選手みたいにストイックな世界で戦う人の事だと考えたりします。

だから、人の言葉は受け取り手に依存します。

こじつけて考えれば何でもかんでも自分が言われているように感じてしまうものです。

特にネガティブな話はそうですね。

ただ…私が言葉で人を傷つけるのは基本的に嫌だという事は、読んでくれている人によっては分かると思います。

だから、そういう人は

「ああ、これは違う意味だな」

「これは自分に向けてじゃないな」

と考えたりします。

私がどういう人間であるかを細かく話すのは、こういう目的もあるんですよ。

抽象は認識のすれ違いを生みやすい。

不特定多数への説明では、1人1人への説明では起きない齟齬が発生します。

また、具体と抽象だけでなく客観や俯瞰などの視点の違いでも認識のすれ違いが起きます。

私がブログを書く時は不特定多数へ向けて書く。

不特定多数が見るからこそ、不特定多数が受け取りやすい形で文章を構成しているので、1人1人に向けた意見とは違ってきます。

誰かが傷ついたり落ち込んだ姿を見たり…

依存してくる人が多発したら感情が引っ張られて、わりと限定的な記事を書く事もあるんですよ。

ただ、基本的には不特定多数へ向けたものです。

で、私の記事を読む時に

「自分に当てはまるかどうか」

みたいに主観的に読むと自分が言われていると思いこみやすい。

「世の中の問題に当てはまるかどうか」

と、客観・俯瞰的に読むと変に誤解する事は無いんですよ。

だから、読み手が客観的・俯瞰的に見れるように工夫しながら書いているんですが、この辺はまだまだ私の技量不足です。

という感じで、自分の考えを不特定多数に正しく伝えるのはクソ難しい。

人によって境界線が違いますからね。

一つの物事を本気で正しく伝えようとしたら本が一冊出来るレベルだし、さらに話が難しくなります。

ブログでこれ以上話を難しくしたら、流石に読む人もいなくなると思うんですよ。

だから、現時点の折衷案として読み手の読解力に頼らざるを得ない。

なんとも…もどかしいなあと思います。

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