人が持つ崇高さ

哲学系記事
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崇高さとは、尊く気高いことを指す言葉です。

人の精神の中にも崇高さはあって、それは計り知れない価値があります。

何かに対する強い想いから作られ、それは長い道程の果てにあるものです。

人が持つ崇高さには本物にしかない魅力があって、行いは真似出来ても魅力までは真似出来ないものです。

今回は、そんな感じの話です。

崇高なるもの

崇高さは美的観念として表される事が多いです。

神の存在であるとか、巨大な山嶺であるとか、強大な存在に対して感じるものです。

一方で、「崇高な精神」のように、人の在り方や行いに対して使われる事もあります。

例えば聖書に描かれるキリストのように一切の邪念を持たずに全ての人を救おうとする事。

これは崇高さとして扱われます。

まあ、行いに一切の邪念が無い人なんて極めて稀有な存在なので…

多少の邪念が混じっても尊く気高い心から来る行いなら崇高と呼べるのではないでしょうか?

例えば、登山に挑戦する人。

インスタやTwitterで「いいね」を貰う事が目的で挑戦する人、これは崇高とは言えないでしょう。

人に称賛される事がメインで、登山はその手段に過ぎないからです。

逆に、険しい山に挑戦する事に情熱を燃やしている人が、「いいね」を貰いたいという気持ちを多少持っていても崇高と呼べると考えています。

山への情熱は本物ですからね。

物事に対する強い想いを持っている。

それは人が持つ崇高さなわけです。

人は清濁を合わせ持つ

聖書に描かれるキリストのような、善性100%な人間は現実に存在しないものです。

どんな聖人君子にも必ず負の側面はあり、人である以上は清濁を合わせ持ちます。

ただ、子供の頃の私は偽って振る舞う人がスゲー嫌いでした。

例えば、悲しくもないのに葬式で泣いて悲しいフリをする人。

これは死者や遺族への冒涜だと考えていました。

これは人に対する潔癖ですね。

一切自分を偽らないとトラブルに発展する事もあるから、社会生活を行う上では時に演じる事も必要になるものです。

誰しもがそうして生きていて、わざわざ暴くような事でも非難するような事でもありません。

単純に、子供の頃の私が人に対して潔癖だっただけです。

で…潔癖だった理由は自分が弱者だったからです。

人は相手の価値によって対応が変わるものなんですよ。

何を基準にするかは人それぞれですが、これは全ての人に当てはまる事です。

一般的な価値観では、ヒエラルキーの高さ、名声、権力、容姿などですね。

それらを持たない弱者に対して、人は負の側面を見せるものです。

分かりやすい例だと…美男美女に対して優しい人が、不細工な人には冷たくする事。

美男美女に対しては正の側面を、不細工な人に対しては負の側面を見せているわけです。

これに対して私は善悪を説く気はなく、人は何かしらの価値に対して態度が変わるという事実があると言いたいわけです。

まあ、侮蔑や悪意をもって容姿を貶す事はシンプルに良くない事ですけどね。

子供の頃の私は極めて価値が低かったので、人の負の側面を見る機会が多くありました。

「親切な良い人」と称賛されるような大人も、私と二人きりの時は野良犬をあしらうような態度を取る。

価値の低い者に対する人の行いを当事者目線で見てきたから、それを偽っている事をスゲー軽蔑していたわけです。

幼少期の私の周りにはロクな大人がいなかった…というのもありますが、まあ純粋な子供でしたね(笑)

私は他人よりも人の内面を見抜けたから、本当か演技かの判断が得意だった。

その中で…本当に優しい人や本当に悲しむ人など、嘘偽りない感情を持つ人も分かっていました。

心からの想いを知った時、それがものスゲー綺麗に思えたんですよね。

悪性が強くなったり心を殺したりして、一時期はその感覚を失ったんですが…

人間らしい感情を取り戻してからは再び感じられるようになりました。

今の私は別に潔癖ではありませんが、大人になった今も心からの想いに触れた時は崇高さを感じます。

経験が作る

振り絞った勇気とか、何かにかける熱さとか、純粋な優しさとか、他者のための義憤とか、崇高さを感じるものは結構あって…それらに触れると心が震えます。

何も感じなかった時は酷く冷めた目で見ていたし、それらを持つ人が馬鹿みたいに思えたものです。

私は共感能力が無いので、人よりも余計に冷めていたんですよ。

ただ、自分が経験するにつれて他人の想いの価値を知るようになった。

死ぬほどビビりながら勇気を振り絞る心の強さを知っているし、

後先構わず本気で何かに打ち込む熱さを知っているし、

見返りを求めず犠牲も構わず誰かの力になる優しさを知っているし、

他人が受けた理不尽に本気で怒る義憤を知っている。

私は共感能力が無い分、経験を重視してきました。

自分の感情を強く動かすものを求めて、色々な場所に行き、色々な人と会い、色々な事をしました。

崇高さは経験してきたから分かる事で、机上では身に付かないものです。

正直、人が持つ共感能力がどれほどの物かは今一つ分かっていません。

共感能力でも、ある程度は崇高さを感じられるのだと思います。

しかし、その人が通ってきた険しい道程に思いを馳せられるほどでは無いと考えています。

生まれつき強い想いを持っている事は稀で、大抵は経験から知らず知らず持つものです。

私は、かつての私に

「お前が冷めた目で見ているものを経験しろ」

と言いたいです。

勇気、熱さ、優しさ、義憤。

誠実さ、愛情、公徳心、不屈。

人が持つ崇高さは経験するまで本当の価値が分からない。

欠けたパズルを集めるように経験していく事も人としての成長なのだと思います。

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