幸せは自分の足でしか辿り着けない

哲学系記事
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今は自分の思想をまとめ直している時期で、前回に続いて私のブログの主題となる話です。

「幸せとは何か?」

これ、意外と答えられる人が少ない質問です。

哲学や心理学でも主題となるテーマですが、ちゃんと考えて答えを出すのが難しいからです。

一般的には出世とか結婚みたいな「手段」を幸せと捉える人も多い。

ただ、私は幸せとは在り方であると考えています。

今回は、そんな話です。

幸せとは何か?

仏教的に考えると「幸せ」とは苦痛が無い状態の事を言います。

この目線から考えると、一般的な幸せの定義とはガラッと変わります。

例えば、金持ちは何一つ不自由が無いから幸せと思う人もいるでしょう。

しかし、人は今の環境に慣れてしまい、それが退屈に変わります。

退屈は人が感じる苦痛の一つです。

どんな環境にいても人は慣れてしまうもので、退屈は常につきまとう。

退屈を感じる限り幸せとは言えないわけです。

また、欲も苦痛として扱われています。

例えば、空腹は苦痛です。

苦痛を無くすには食事を取るしかありません。

食事をして苦痛が消えた時、一時的に幸せを感じます。

しかし、安定して食事が取れるようになると今度はより美味しい物が食べたくなる。

その美味しい物に慣れると、さらに美味しい物が食べたくなる。

という無限ループに陥り、永遠に欲を持ち続けてしまう。

一瞬だけ満たされる幸せを追い続けてしまう事もまた苦痛とされています。

だから、根本的な苦痛を消し去り、今ある人生に満足している状態が幸せなわけです。

ただ、現実問題としてある程度の生活レベルが出来ていないと満足は難しいです。

1人孤独に隙間風が吹くボロアパートでパンの耳をかじる生活が幸せ…とは流石に言えないでしょう。

欲以外の苦痛を感じなくなるまで生活を向上させていく必要があります。

で、これは杓子定規に捉えなくて構わないです。

ちょっと贅沢して美味しい物を食べるみたいな人生においてささやかな幸せを絶つ必要はない。

ある程度の自制が出来ていて、際限なく欲を抱かなければ良いというだけの話です。

与えられる事では幸せが続かない

私は、Ubereatsみたいなギグワーカーは一度くらい経験した方が良いと考えています。

本業にはオススメしないから副業としてですけどね。

個人事業主や経営者でない限りは「お金を稼ぐ」という感覚が身に付かないからです。

どこかの会社の正社員として働くと固定された給料が当たり前になり、お小遣いを貰うみたいな感覚になってしまうんですよね。

「自分で稼ぐ」

という感覚と

「給料を与えられている」

という感覚では、仕事に対するモチベーションが雲泥の差になります。

今まさに自分の力で金を稼いでいて、その金で生活しているという感覚があると…わりと今の暮らしに満足するんですよ。

逆に固定給だと、それが当たり前になって不満を持ち始めるんですよね。

人は与えられる事にはすぐに慣れてしまい、より多く与えられない限りは不満を抱きます。

際限なく欲が続いてしまうわけです。

与えられる幸せは長く続かないし、与えられるかどうかは運も関わります。

これはお金に限らず、自由、愛情、権利、信用などなどにも言える事ですね。

それらは本来なら自分の力で手に入れるものです。

与えられる事を期待するよりも、自分の力で勝ち取っていく意識を持った方が幸せは長く続きます。

ただ、与えられる事を否定しているわけではないです。

人は弱るもので、そういう時は誰かの助けが必要になります。

人を助けて人に助けられる。

これは地球上にあるほぼ全ての宗教や道徳で肯定されている事ですね。

私もこの価値観は正しいと思っています。

助けられる事が問題なのではなく、助けられる事ばかりを期待して自力で進む気を失ってしまう事が良くないだけです。

そうではなく

「何かをする為に誰かに支えて貰う、何かをする為に協力する」

これはレベルの高い事をするほど必要なもので、幸せに近づいていく行いです。

逆に…

「自分では何もせずに不満を言うだけ」

これでは永久に苦痛は消えません。

人生がクソだと思う人は、大抵の場合この状態に陥ってしまっています。

「自分の力で勝ち取る」とは何も自分1人で全てを行う事を指すのではなく、自分から何かを成し遂げようとする事です。

人の手を借りるかどうかに関わらず、大事なのは自分の意志なんですよ。

その気持ちを持って前進していると、必然的に人生が楽しくなる。

それって幸せなんですよね。

苦痛を消していく

私が人を助けようとするのは、人に気に入られたいからではないんですよ。

気に入った人が苦しんでいるのが嫌だから助けたり、単純に自分の正義から来る行いだったりします。

人に気に入られようとする行いは、見返りが得られないと苦しいものです。

例えば、プレゼントを送る事。

相手に気に入られようとして行うプレゼント選びは面倒臭いし、見返りが無かったら不満を抱きます。

仮に見返りがあっても、お互いの幸せは長続きしません。

逆に、相手に喜んで欲しくて行う場合はプレゼント選び自体が楽しいし、相手が喜んでいたらスゲー満足するんですよね。

自己完結するから、後者の方が幸せを感じやすいわけです。

人には承認欲求という欲があります。

これは誰しもが抱くもので、それ自体は仕方のないものです。

ただ、この欲に負けてしまうと人に気に入られようとしてしまう。

そして、一瞬の欲を満たすために苦痛を味わい続ける事になります。

だから、それよりは苦痛の根本を消してしまう方が合理的です。

そのためには、他人からではなく自分で自分の価値を認められるようになっていくのが一番良いんですが…

ただまあ、色々な人と会ってきて思うに、これが難しいんですよね。

そもそも、仏教的にもレベルの高い状態ですから。

現実問題として、スゲー弱っている人や厳しい世界で戦う人には他者の承認が必要だし、人に認められる事は誰しもが嬉しいものです。

だから、変わりに気に入られようとしなくても他者から認められるようになれば良い。

スゲー分かりやすいのは有名人になる事で、これは多くの人が憧れるものです。

そこまで行かなくても素の状態で性格が良かったり、秀でた能力を持っていたり、実績を残したりすれば他者から認められます。

これって、わりと健全な承認欲求の満たし方なんですよね。

承認欲求を抑えながら努力して、承認欲求を満たすわけです。

ただ、欲に流れてしまうと努力より短絡的な方法を選んでしまい、人に気に入られようとする無限ループに陥ってしまう。

だから、欲に抗う必要があるんですよ。

欲に抗うだけの精神力は厳しい世界で生きてきたり、継続した努力の経験が無いと身に付かないものです。

精神力を鍛えるために、私からオススメ出来るのは筋トレなんですが

「まーた、このオッサン筋トレの話してる」

と言われそうなので…

筋トレがオススメです(笑)

人に気に入られるために永久に労力を使って苦痛を味わうよりは、努力をして人に気に入られるような人間になった方が楽なんですよ。

この意識の切り替えが出来たら話が早いんですが、その切り替えを行うにはそれなりの思考力が必要で…その思考力はまた別の事で養われます。

まあこんな感じで、人生で何かを積み重ねた経験が無いと厳しくなっていくんですよね。

ちなみに以前の記事で書いた対人恐怖症の人は、何よりもまずトラウマを消す事が必要です。

トラウマを消すだけで承認欲求が無くなるパターンも多いですからね。

苦痛を消していくのは結構大変なんですよ。

本当の幸せというものは簡単に手に入らないわけです。

私は「人生はクソだ」とか「生きるのが辛い」とか思いながら生きたくはないから幸せを求めてきました。

そのうえで強く思ったのは、他人に任せていたら幸せは手に入らないという事です。

私が多くの人の幸せの為に出来る事は「教える事」ぐらいです。

現実問題として、幸せは自分の足でしか辿り着けないんですよ。

私は自分が好かれる事よりも他人が幸せになる事を望みます。

だから、人が望む事よりも人に必要な事を言いますし、行います。

それもまた、私の幸せに繋がっていたりするんですよね。

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