心の自由さ

哲学系記事
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人は生きていく上で様々な制約を受けるものですが、それは心にも同じ事が言えます。

考えを整理せずに漠然としたままだと、心が足の踏み場も無いくらい雑念で埋まってしまい不自由になる。

心に無駄な制約がある状態は、まあ疲れるんですよ。

必要な制約は受け入れるとしても、不要な制約は整理して除外していく。

今回は、そんな感じの話です。

「恥」は自省の感情

人は自分が価値観に合わない言動をしたと認識した時、恥を感じます。

恥は対人関係で起きる感情であり、他者との価値観の違いを修正する役割があります。

例えば、人前でバナナの皮を踏んですっ転ぶ事。

周りにいるのが打ち解けた友達だけなら大して恥を感じないでしょう。

むしろ、笑いが取れて「美味しい」とすら思うかもしれません。

打ち解けた友達の前でバナナで転ぶ事は、自分の価値観ではそこまで恥ずかしい事ではないという事です。

では、周りにいるのが見ず知らずの人ばかりならどうでしょう?

スゲー恥ずかしいと思います(笑)

この場合、「知らない人の前で転ぶ事」が自分の価値観では恥ずかしい事と認識しているわけです。

だから、知らない人の前で転ばないように気をつけようとします。

恥を知る事で自省をするという事ですね。

恥というものは、めちゃくちゃ個人的な感情です。

人によって恥に感じるポイントは全然違っていて、自分が抱いている価値観次第です。

日本の一般的な価値観だと周りと違う事を恥に感じます。

だから、一般的な価値観に近いほど周りと違う事を恥と感じてしまう。

ただ、私が色々な記事で話してきた通り、周りと違う事は長所にもなり得ます。

それを知る人は、あまり恥には感じません。

恥と感じるか感じないかは価値観の違いというわけです。

また、「恥をかかされた」と感じた時に抱く、他者に対する攻撃的な感情を「屈辱感」と言います。

これは自省の感情ではなく、シンプルに憎しみなので恥とは違います。

人は恥があるから自分と違う価値観に合わせる事が出来ます。

恥をかいた経験が多ければ、それだけ価値観が広くなる。

価値観が広ければ、それだけ柔軟でいられます。

しかし、恥は精神を崩壊させかねないほど強い感情であり、人は恥を恐れます。

日本では独創的な価値観を持つ人ほど恥を感じやすいため、コミュ障や自己肯定感の低さの原因にもなる。

ただ、非合理的な事が恥とされている事もあって、それは環境の方が歪んでいる場合も多いです。

例えば、幼少期の私は人前で歌う事を恥と感じていました。

家族から「音痴」「汚い歌」「耳障り」「気持ち悪い」と言われ続けて育ったからです。

中学生の時、音楽の先生に声質を死ぬほど誉められて、それからは恥とは思わなくなりました。

逆に、私は失敗する事にあまり恥を感じません。

それは、私が「ダセー」と思った人達は他人の失敗を嘲笑しますが、私が「スゲー」と思った人達は他人の失敗を馬鹿にしなかったからです。

自分が抱いている恥という感情は、その行動そのものが恥ずかしいとは限らず、そういう環境だったという事もあるわけです。

「恥をかかないようにしよう」

これは誰しもが考える事です。

それはプラスに働く時もありますが、マイナスに働く時もある。

極端に恥を避けて生きると行動が制限され、窮屈な生き方になってしまいます。

無理して恥をかく必要はありませんが、自分が進みたい道の先に恥があるなら越えていくしかない。

恥を恐れるあまり恥を避けようとするのは、不自由な生き方ですからね。

強迫観念に囚われない

「自分はこう思われなければならない」

「自分はこうしなければならない」

と、強く思い込んでいる人は不自由を感じやすいです。

完璧でなければならないと思い込むと失敗を極端に恐れるし、凄い人に思われなければならないと思い込むと誹謗中傷に弱くなる。

自分に対してシビアで余裕がなく、他者の評価に影響されやすいからです。

他者から勝手な期待を押し付けられたり、背伸びして虚飾をすると強迫観念に囚われやすいです。

強迫観念を抱くと、柔軟性を失って出来ない事が多くなってしまう。

さらに、合理性に欠けて怒りっぽくもなる。

シンプルに打たれ弱くもなります。

ネガティブな意味での「プライドが高い」という状態になってしまうわけです。

「自分はこうありたい」

という目標を目指す気持ちならプラスに働きますが

「自分はこう思われなければならない」

という強迫観念は、自分を追い込みやすいのでオススメはしないです。

まあ、虚飾に関してはシンプルにやめれば良いだけの話なんですが…

問題は他者からの期待で、それが難しい。

真面目な人ほど他者の期待に応えようとしてしまいますからね。

しかし、他者からの期待ってスゲー自分勝手なものもあるんですよ。

無理に期待に応えようとし続けると、強迫観念に陥ってしまいます。

まあ、これは考え方の違いです。

見ず知らずの人に「お金をくれ」と言われて、理由もなく渡す人はいないと思います。

同じように「時間」と「労力」もそうなんですよ。

誰かれ構わず渡すものではないわけです。

何らかの勝手な期待を寄せられる事によって強迫観念に陥ってしまうとマイナスしかありません。

ネガティブな意味でのプライドを高くしないためには、必要な期待と勝手な期待を分けて考える必要があります。

「自分は他者の期待に応えなければならない」

ではなく

「自分が応えたい期待に応える」

というスタンスの方がモチベーションを高く維持出来ます。

自分の思い通りにならない事に不快感を抱く人は多く、期待に応えないと不満をぶつけてくる事もある。

しかし、その人達が説く「正しい事」は基本的にただのワガママです。

自分に寄せられる期待全てに応えていたら、それではただの奴隷です。

そうなると死ぬほど消耗するし、最終的に何も出来なくなってしまう。

応えたい期待にだけ応える形で、自分の意志で選んでいく。

それがスゲー大事です。

%の考え方

0か100、YESかNOみたいにシンプルに二極化すると考えるのが楽になりますが、不自由にもなります。

例えば、「幽霊がいるのか?」という問いに対して、私は「いる」「いない」のどちら側にも属す事が出来ません。

どちらの側につくとしてもハッキリとした根拠が無いからです。

元々、私は幽霊が存在する可能性は微妙だと考えていました。

ただ、最近は心霊現象と考えた方が納得のいく不可解な現象を死ぬほど見ているので、自分の中で存在する可能性が高くなりました。

私の中では80%くらいの確度で、幽霊は存在するかもしれないと考えています。

で、これを「幽霊は存在する」と100%で言い切ってしまうと、説明出来ない事も多くなるんですよ。

●見た物が幽霊だという根拠が無い

●起きた現象を心霊現象とする根拠が無い

などですね。

だから、幽霊に関する話は「~可能性が高い」ぐらいが正しい立ち位置だと私は考えています。

世の中にはハッキリ断定出来ない事が多くあって、二極化して考える事自体が間違っている時もあるんですよ。

そういう時は、◯%と曖昧に表す方が正しさに近くなります。

もちろん、ハッキリと断定出来る根拠があるならYESかNOで良いんですよ。

あくまで断定出来ない場合の考え方ですね。

例えば、話しかけたら無視された時。

この時、二極化してしまうと

「自分は嫌われている」

と考えてしまいがちです。

一度、ネガティブ方向に考えてしまうと「嫌われている」という意識で人の反応を見てしまう。

誉められた事を皮肉と受け取ったり、誰かの失敗を嫌がらせと捉えたりですね。

私の場合、相手から無視された時に嫌われている可能性は20%ぐらいなんですよ。

なんでかというと、嫌っていなくても無視してしまう事が普通にあるからです。

●単純に考え事をしていて気がつかない

●返答する余裕が無い

●誰かと話しているか、電話中

みたいに無視するケースって結構あるんですよね。

で、20%と考えた時はハッキリ嫌われているとは思わないですよね。

しかし、二極化した場合は100%近く「嫌われているかもしれない」と認識してしまいやすいんですよ。

こうやって、二極化して次々と断定していくと…心の自由さを失っていくわけです。

少し話は変わるんですが、私のブログは不特定多数に向けて書いています。

世の中には色々なマイノリティがいて、そういう特定の人達に共通するテーマを扱う事が多いです。

理解されにくい事に触れる記事が多いので、寄せられる意見を見ると

「自分に向けて書かれている」

と、錯覚しやすいみたいです。

まあ、何度も言うように私は特定の個人ではなく不特定多数に向けて記事を書いています。

世の中には様々な状況や立場に置かれている人がいて、広く対応出来るようにしたいからです。

私は色々な場所から記事のヒントを探していて、インスピレーションの元になった人や出来事があったりもするんですよ。

強く感情が動いた時は誰かに対する手紙のような記事になってしまうため、ややこしくなっているだけですね。

私自身は特定の誰かに肩入れしたり味方するとしても、記事に関しては出来る限り中立でいたいと思っています。

純粋に私のスタンダードな考えを発信して、その中から必要な物を誰かが拾ってくれたら良いと考えているからです。

で、私は人によってかける言葉は変わるんですよ。

人にはそれぞれの事情があるので、私のスタンダードがその人のためになるとは限らないからです。

頑張っている人が私の記事を読んで落ち込んだら、私も凹みます。

誰かを傷つける目的ではありませんからね。

私のブログ「蛙書楼」は図書館をイメージしています。

私が直接誰かに対して語りかけているのではなく、図書館に置いてある本を誰かが勝手に読むという感じですね。

ここがブレるとブログの意味が無いんですよ。

様々なケースを想定して書いてはいますが、記事を読む一人一人に対してベストな回答が出来るわけではありません。

特殊な状況にいる人ほど私も想定出来ない事が出てくるので、当てはまらない事も多いでしょう。

その点で、ブログは受け取り手に対して強制力が無い事がメリットです。

それが無かったら一人一人にメッセージを送った方が正確ですからね。

もちろん、ブログに書いてある内容は自由に使ってくれて構いません。

私の知り合いは、蛙書楼に書いてある内容をそのまんま私に語ってきたりしますからね(笑)

私は誰かを助けた手柄が欲しいのではなく、結果的に誰かの力になれば満足なんですよ。

私の記事の内容を他の誰かが発信しても、結果的に誰かの力になるかもしれない。

そこに私の名前が残る必要は無い。

そういうコンセプトで始めたブログなんですよね。

そのためには何にも囚われず、ただ考えた事を書く必要がある。

だから、私も記事を書く上で心の自由さを大事にしています。

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