「人は考える葦である」

哲学系記事
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フランスの哲学者パスカルの有名な言葉です。

「人間は自然の中では葦のように弱い存在である。 しかし、人間は頭を使って考えることができる。 考える事こそ人間に与えられた偉大な力である」

これは本当にその通りで、人生において最も重要な事だと私は考えています。

人は空を飛べない生き物ですが、考える事によって空を移動する手段を手に入れました。

現時点での「不可能」を考える事で「可能」に変えていけるのが人の強みです。

しかし、考えなければ現時点で出来ない事はずっと出来ない。

今回は、「人は考える葦である」についての話です。

学校教育の弊害

人類が歴史の中で蓄積してきた知識や技術は偉大で、これを学ぶ事は正しいと思っています。

自分1人の考えだけで歴史の遺産を越える事は出来ず、新しい物は先人達の遺産を土台にして生まれます。

その点で、私は学校教育を肯定しています。

ただ、日本の学校教育は

「周りと同じである事」

「上の人間に黙って従う事」

が正しいという価値観を徹底的に叩きこもうとします。

これ、奴隷や囚人、前線に送られる下っ端の兵士を反抗させないための調教と一緒なんですよ。

だから、そこが歪んでいると考えています。

その結果、多くの人が

「周りと同じ事をすれば良い」

「正解を習えば良い」

という落とし穴にハマってしまいます。

自分で答えを出すよりも、誰かに聞いたり真似をした方が正しいと考えてしまうからです。

その状態がいわゆる「思考停止」です。

人の最大の武器は容姿でも筋肉でもなく考える事です。

歴史の中で生み出した技術を使い、人は野生動物に勝ってきました。

その技術は考える事から生まれ、考えなければ人は無力です。

クリエイターもビジネスマンも、アスリートも格闘家も、高いレベルに到達出来る人は自分の頭で考えます。

そういう人達も誰かに習うものですが、思考停止した人とは考え方が根本的に違うものです。

自分の頭で考える人達にとって、人から習う事は自分の技を磨くための材料に過ぎない。

習う事で新しい情報を取り入れ、実践し、工夫し、改良する事で自分だけの技に昇華させます。

一方で、思考停止する人達にとって、人から習う事は説明書のようなものです。

説明書の通りにする事が正しいと考え、説明書に無い事は間違いだと考える。

説明書が無ければ何も出来ず、何かをしなければならない時は説明書を求める事が当たり前になる。

例として、自分の頭で考える人達が会社を起こす時は、起業やビジネスに関係のありそうな情報を集めて計画を練ります。

一方で、思考停止する人達は「会社の起こし方」みたいに、説明書のような情報を基に会社を起こそうとするわけです。

当然ながら起業も甘くはないので、後者では上手くいかない。

パソコンの基本操作みたいに答えが決まっている事なら説明書通りで構いません。

しかし、答えの無い事に説明書はなく、あるのは考える材料だけです。

そして、人生には答えの無い事が多いんですよ。

自分で考えなければ分からない事が山ほどあるわけです。

自ら考えて答えを出す事を教えず、ただ言う事を聞かせる教育は…人を思考停止させる。

それは、人を弱いままにしているだけです。

正しさの基準

人は何を基準に正しいと考えて従うか、私は3パターンに分かれると考えています。

●信者
 崇拝する人や上の立場にいる誰かの教えに忠実に従う

●愚者
 怠惰や見栄や欲望を肯定出来るような事にだけ従うか、それを基にした自分に都合の良い答えに従う

●探求者
 現実と向き合って合理的に考え、その答えに従う

一流になる人間のほとんどは、その分野における探求者です。

そうでなければ、そのレベルに辿り着く事が難しいからです。

そして、「人生を生きる力」は探求者にのみ宿ります。

例えば、会社の上司のパワハラ。

信者は、「自分が悪い、自分がおかしい」と考えたり、嫌だと感じても解決策を見いだせず我慢するだけになる。

愚者は、周りが自分を助ける事を期待し、被害者として振る舞ったり、自分を助けない人を責めたりする。

この二者の人生は著しく運に左右され、自分に都合の良い環境に巡り会わない限り苦痛になります。

探求者は、自分で解決する事を考えます。

相手を懐柔したり、規則や法律を盾にしたり、喧嘩したりします。

自分1人の力で足りなければ仲間を増やして戦う。

こうやって直面する問題の解決策を、自分なりに考える事で解決していくわけです。

そのレベルが高いほど環境に適応するし、あらゆる場所で生きる事が出来る。

で…探求者の生み出す方法を信者や愚者は知りたがります。

しかし、信者や愚者が方法を聞いても同じように使う事が出来ず、有益に使えるのはまた別の探求者だけです。

例えば、パワハラ上司がいたら私は正面から喧嘩して黙らせます。

それを話すと「出来ない」と言う人がほとんどです。

なので、他の方法を話すとそれも「出来ない」と言われる。

かつ、そのうえで

「自分でも出来る方法を教えてくれ」

と言われたりします。

正直、その上司も職場も知らない私に言われても分からない。

多分、簡単に問題を解決出来るような「魔法の言葉」や「特効薬的な手段」を聞いているんだと思いますが、そんなものは無いんですよ。

人は積み上げた能力を使って問題を解決するからです。

私の威圧は私がやるから効果があるだけだし、理詰めで追及するのは合理的かつ論理的に物事を考えられないと無理です。

自分で使える手札を把握しているのは自分だけで、解決するためには手札を増やすか使い方を考える必要があります。

自分にしか答えが出せない事を他人に聞いてしまっているわけです。

一方で、探求者は色々な方法を参考にしたうえで、どうすれば実行出来るか、どれが一番成功率が高いかを考えます。

上司と喧嘩するにしても

●どうすれば喧嘩が出来るようになるか

●どうすれば勝てるか

を自分なりに考えます。

喧嘩より良い方法があれば、それがどうすれば実現するかを自分で考える。

だから、解決に繋がります。

古来から武道や茶道にある師弟関係の一つに、「守破離(しゅはり)」と呼ばれる概念があります。

「守」では教えを忠実に守り、しっかりと習得する。 

「破」では、学んでいる教え以外からも良いものを取り入れて自分の技を発展させる。

 「離」では、一つの教えから離れて自分なりの技を確立させる。

探求者は、この「守破離」が正しさの基準になっているんですよ。

借り物の知識や力では解決出来ない問題を解決していける。

問題に対抗出来ない人が多い世の中で、探求者だけが対抗出来る力を持つわけです。

精神の偉大さ

人は自然界では非常に弱い生き物ですが、社会を作り発展させる事で生態系の頂点に立ちました。

身を守るために武器や柵を作り、雨風を凌ぐために家を作り、安定して食料を確保するために畑と家畜小屋を作る。

これらの行動は考える事によって生まれます。

人が生み出す物の前には必ず「考える」という精神があり、物質よりも精神が偉大である事をパスカルは説いています。

社会が発展した現代では、難しい事を考えなくてもなんとなく生きていけます。

誰かの作った物が溢れていて、誰かの作った制度に保障されているからです。

精神が軽視されるようなり、考えなくなった人達は「正解」を他者に求めるようになりました。

人気者になれる方法、金持ちになれる方法、異性にモテる方法、喧嘩に強くなれる方法…などなど。

前述の通り、正解を求める人達は目的を達成出来ないだろうと私は考えています。

完成品の答えを求める者は考える事をしないから、その答えを自分に合わせて使いこなせない。

どんな凄い方法でも自分に合わせた工夫をしなければ使い物にはならず、それはエンジンキーの無い車と一緒です。

例えば、恋愛のテクニック本に書いてある事を愚直に真似したところで、不自然な言動をする痛い人になるだけです。

空気を読み、雰囲気を壊さず、相手を理解して気遣える人がやるから効果があるもので、その前提が無ければ鬱陶しいだけですからね。

そして、それらは人生経験の中から自分流に掴み取っていくものです。

大切なのは俯瞰的な視点を持つ事や相手を知ろうとする事で、それらは考えなければ身に付かないものです。

基本的に考える事を放棄すると上手くいかないんですよ。

慣れない武器で戦うような物ですからね。

人生を向上させる鍵は自分の精神の中にあります。

だからこそ自分の精神と向き合う事が必要だと私は説きます。

最も重要な事は「考える事」なんですよ。

世の中には思考停止していたら理解出来ないものが多すぎる。

知らない事を「知らない」事すら、人は考えなければ分からないものです。

考える人は「不可能」に出会った時、いかにして「可能」にするかを考えます。

思考停止していたら「不可能」は永久に不可能のままで、不可能がある度に引き返す人生になってしまう。

だから、考える人と考えない人では能力に大きな差がつくわけです。

自分の力で何かを変えようとする時、人は真に考える事を学びます。

本気でやろうとしたら、現実を見て合理的に物事を考えるからです。

一方で、最初から他人をアテにしていたら、何も考えずに自分の要望を言うだけになる。

自ら考える人は、それだけ自分の人生と向き合ってきた人です。 

そこで磨いた考える力は、人が誇れる強さなんですよ。

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