「努力」と「頑張っている実感」

哲学系記事
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努力を「嫌な事を頑張ること」と捉えている人も多いのではないでしょうか?

努力を嫌がる人も多いし、逆に無理をし過ぎる人もいる。

それは努力に対する認識が間違っているのかもしれません。

努力と聞くと嫌な感じがするのは、誤解があるからです。

意外と人は普通に努力しているものです。

今回は、そんな努力の話です。

必要な事をやるのが努力

努力と聞くと苦しい事や辛い事のように感じますが、厳密には違います。

何かを成し遂げるために必要な事をやるのが努力です。

例えば、テストで良い点を取るために勉強をする事は努力です。

で、その勉強が楽しかろうが辛かろうが努力は努力です。

●勉強するのが楽しくて仕方ないから勉強する。

●勉強が嫌いだけど我慢して勉強する。

どちらもテストで良い点を取るために必要な事をやっています。

このように目標や目的があって、それを達成するために必要な事をやるのが「努力」というわけです。

だから、稀に楽しい事だけをやり続けて上手くいく人もいます。

楽しんではいるけれど、しっかり必要な事をやっているからです。

ただ、何かを目指す時はレベルの高い物事ほど簡単にはいかないものです。

楽しいばかりでやっていけるとは限らず、嫌な事や辛い事を頑張る必要もある。

だから、努力は苦しいものにもなります。

楽しみながら必要な事をやれるのが一番良くて、苦しみながら努力するよりは断然成長しやすい。

ただ、苦しみながら努力をすると苦痛に対する耐性が高くなるので、決して無駄ではありません。

どちらにもメリットがあって、どちらが良い悪いという事は無い。

まあ、スゲー苦労して努力をしている人を見ると、誰もが「頑張っている」と思うでしょう。

それが一般的な努力のイメージになっているだけで、そこまでいかなくても努力は努力です。

シンプルに必要な事をやる事、それが努力です。

逆に、スゲー苦労したり莫大な労力を払っていても、必要な事をやっていなかったら努力とは言えません。

単なる苦行か、現実逃避の類いになってしまいます。

努力のやり方

例えば、筋トレに対するモチベーションを上げる時。

私は3つの方法を使います。

一つは、目標を分析して具体化する事。

漠然とマッチョになると考えるのではなく、既に存在するマッチョな人を目標にする。

海外のフィジーカーを目標にする事が多いですね。

その筋肉を作るためにはどんなトレーニングが必要かを考える。

肩の筋肉が発達した人なら肩のトレーニングを見直し、パワーに優れた人ならパワーを重視したトレーニングを採用する。

こうやって目標からやるべき事を具体化していくと、モチベーションになります。

ある程度に努力が出来る人向けの方法ですね。

もう一つの方法は比較です。

例えば、鏡の前に立って、自分が理想とする人の写真と自分を見比べる。

この時、自分がスゲー嫌になります。

何かをしなくてはならないと落ち着かなくなる。

その気持ちをトレーニングにぶつけるわけです。

あとは、ガチガチにトレーニングをしている動画を見て、「自分もやらなければ」という気持ちに持っていくのも効果があります。

これは、どちらかというと努力が苦手な人向きですね。

人はやるべき事がハッキリしていると行動のハードルが下がります。

逆に、やるべき事が漠然としていると努力する気にはならない。

「数学の勉強をする」

と漠然としているよりは

「教科書の◯ページから△ページまで」

と具体的な方が遥かに行動しやすい。

根本的に向上心が持てない場合は、今の自分から逃げたい気持ちを利用します。

他者と比較して劣等感を抱く。

その気持ちをSNSに向けたり、自分への言い訳で手軽に解消するのではなく、努力に向ける。

劣等感は行動するエネルギーになるからです。

劣等感の最も有効で建設的な解消方法は努力で、劣等感を抱いた時はモチベーションが高くなります。

誰かへの攻撃や自己弁護、虚飾などで簡単に解消しようとすると、自分を変える強いエネルギーをドブに捨てるようなものです。

それは非常にもったいない事なんですよ。

そして最後に、3つ目の方法。

それは不退転の覚悟を決める事です。

細かい事は一切考えず、ただ「成し遂げる」と固く決心して挑む。

それが出来た時は、自然と必要な事を行うようになります。

頑張っている実感を感じなくなる

「努力は苦しいもの」と認識してしまいがちなので、苦しい思いをしないと「努力した」と感じられない事があります。

これは私もそうで、ほぼ毎日ジムに通って筋トレをして、ブログを書いて、複数の会社の仕事をして、自分の事業をやっていても「努力した」とは感じません。

それが当たり前になっているからです。

努力を感覚で捉えた場合、定期的に負荷を上げていかないと感じなくなるものです。

ただ、私の場合はこれ以上負荷を上げたら過労死します。

努力を感覚に求め続けると、最終的には努力の概念がぶっ壊れる。

だから、頑張る人ほど無理をし過ぎて心身を壊してしまいます。

努力した気にならないと不安になりますからね。

ただ、先にも述べた通り

「努力とは必要な事をやる事」

です。

私にとって苦労に感じない筋トレも、私にとっての努力です。

努力した実感は玄人になるほど得難くなり、得ようとすると体が先に壊れます。

気負わずに必要な事をやれている状態は、良い努力が出来ている状態です。

それって十分頑張っている状態なんですよ。

玄人になるほど頑張っている実感を求めるのではなく、必要な事をやれているかどうかで判断する必要があるわけです。

客観的に見ると努力している事が分かります。

周りからすれば、実感は無くても必要な事をやっている人は努力しているように見えるものです。

真面目に働いている人は、やる気の無い人や働いていない人から見たらスゲー努力しているように見えます。

どんな人間にもその場所での戦いがありますからね。

その戦いに必要な事をしていれば努力なわけです。

努力している人達が報われるとは限らない。

ただ、個人的な感情では報われて欲しいと思っています。

厳しい戦いをする人には特にですね。

それゆえ、あっちこっちに味方したくなってしまう。

私は努力する人に好感を持つだけで、断じて博愛主義ではありません。

真に博愛主義な存在は神くらいです。

同じように、普通の人は誰に対しても博愛の精神を持つのではなく、様々な条件によって好感を持ちます。

誰かに頑張りを認められるという事は、実感があろうが無かろうが努力しているという事なんですよ。

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