「雑記」残していく

哲学系記事
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人生に余裕が出来始めた頃から「世の中に何を残せるか」という事を考えるようになりました。

私は

「自分が死んだ後の事は関係ない」

とは思いたくないんですよ。

先人の教えや先人達の残した物によって生かされているし、人生の中で継承していく大切さを学んだからです。

私は歴史というバトンリレーの中間走者であって、先の走者によって渡された何かを後世のために残していかなければならないと思っています。

だから、何を残せるかというのが私の人生の副題になっています。

今回は、そんな感じの話です。

形の無い功績

エジソンみたいに電球を発明したとか、リンカーンが奴隷制を廃止したように、功績と聞くとスゲー事を想像すると思います。

しかし、世の中に残すものは誰もが認めるような偉大な功績…ではなくても良いと思うんですよ。

私が昔、誰かの助けになろうと思い始めたのは、思想の踏襲と贖罪の意味が強かったんですが、同時に

「自分が助けた人が世の中に何かを残せば、間接的に意味のある行いになる」

と考えてもいました。

社会は色々な人が回しています。

エジソンやリンカーンも、誰かが作った食料を食べ、誰かが作った家に住み、誰かが書いた本を読んでいます。

誰かの作った治安に守られ、誰かの劇を楽しみ、誰かの教えを受けた事でしょう。

一つ一つは歴史の表に出てこない活動が、偉大な功績を残す人達やそれを支える人達を支えている。

そうやって考えると自分の人生に意味が見えてこないでしょうか?

英雄になれる人は少ない。

しかし、英雄はそれを支える人達がいないと成りえない。

人も社会も循環していて、目立つ役割があって目立たない役割もある。

その中で突出した人が大きな役割を担って大勢を支え、その大きな役割を担う人を大勢が支えている。

人と社会の循環の中にいる限り、基本的に人は目に見えない功績を残している。

俯瞰的な視点を手に入れた時から私は、こういう風に考えるようになったんですよ。

ただ、循環の中にいても功績にならない事があります。

例えば、マトモに動かないプログラムを作ったところで誰も必要としないし、私利私欲に満ちた人間が権力を持つと社会のデバフになる。

循環に加われないか、循環の邪魔になってしまうわけです。

だから、自分の価値を積み上げていく事や人間性を育てていく事で、誰かにとって価値のある人間になっていく必要がある。

そして、誰かにとって価値のある人の人生は、俯瞰的に見た時に意味があるわけです。

それは形の無い功績だと思っています。

何を残すか

Twitterなんかを見ていると

「自分はダメな親で子供のために何も残せない」

みたいに悲観した事を書いている人がいたりするんですが、そうやって考えられる事自体が立派な事だと私は思っています。

本当にダメな親なら子供のために何かを残そうとはしないですからね。

そもそも子供を歪ませずに一人前に育てる事は難しいので、それが出来た人は

「世の中に価値のあるものを残せた」

と胸を張って言っても良いのだと思います。

命を繋いでいくという事は、やっている人が多いからピンと来ないだけでスゲー重要な事ですからね。

で、私はそれが出来ない可能性が高い。

だから、別の形で残そうと思うわけです。

そのため、自分の思想を残していく事を考えました。

そこそこ特殊な経験をしてきた事によって作られた思想だから、まあまあ価値があるだろうと思ったんですよね。

最初は出会う人に話して聞かせるだけでしたが、ブログを書くようになって一気に意味を持ち始めました。

わりと多くの人が読んでくれて、日本だけでなくアメリカやフランスなど海外からもアクセスがある。

そういう人達の思想の材料となって、その人達の中で私の思想が生き続ける。

これは継承と考えて良いのかもしれないと思っています。

また、私の書いた記事によって誰かの助けになったなら、それは形の無い功績です。

たった1人でも誰かの助けになったなら、十分に意味のある事ですからね。

誰に知られずとも私はそれを誇る事が出来る。

だから、ブログを書いて良かったなと思っています。

ただ、私はいつ野垂れ死ぬか分からないと思っているので、自分が死んだ時にどうするかを考えています。

万が一のための遺書を書いていて、蛙書楼を譲渡する旨を記載しています。

誰に譲渡するかという話ですが、今の所は古い友人が暇そうだから勝手に指名しました(笑)

まあ、サイト自体が今後どうなるかは分からないですけどね。

功績は価値を持ち続ける

念を押しておくと、これはあくまで私個人の価値観です。

私は自分の名前が後世に残る必要は無いと思っています。

例えば、トーマス・エジソンの名前を聞いて

「死ぬほど尊敬しています!」

という人は少ないです。

賢帝と名高いローマ皇帝であるマルクス・アウレリウス・アントニヌスの名前を聞いても

「誰それ?」

と思う人がほとんどでしょう。

名前自体はただの文字です。

その人の想いや人間性、そこから来る言動を知る人がいるから名前に価値があります。

その人を知る者がいなくなった名前は時間が経つほど価値を失い、ただの文字になる。

しかし、エジソンが生み出した電球は形を変えて今でも多くの人の生活を支えているし、アウレリウス帝の治世や著書は後世の参考になった。

彼らの功績は今もなお人々の間で価値を持ち続けているわけです。

だから、名前が残る事はわりとどうでも良くて、功績が残る方が大事だと私は思っています。

100年後に私の名前が残るより、100年後に私の考えが誰かの中に残っていた方が嬉しいんですよ。

まあ、有名になった方が大勢の人の中に残る可能性は高いですが、私の性分に合わないし…そういう器ではないですね。

もちろん、名前を残す事や有名になる事を否定するわけではないです。

それは誰もが出来る事ではないですし、スゲー価値のある事です。

それによって出来る事もたくさんあるし、そうじゃなければ出来ない事もある。

それは十分に誇れる事だと思います。

シンプルに私が面倒臭い奴なだけです。

AB型ですしね(笑)

少し話は変わって、スペインにサグラダ=ファミリアという教会があります。

建築家アントニ=ガウディの遺作でもあり、2022年現在でも建造中という非常に珍しい世界文化遺産です。

ガウディ自身が生前に全力で取り組み、ガウディの死後も受け継いだ人達が完成させようとしている。

自身が全力で追い求めて辿り着けなかった目標を未来に託す。

誰かが託した目標を受け継いで、違う誰かが追い求める。

私はこれにロマンを感じるんですよ。

未完成の物を受け継いで、世代を越えて完成させていく。

哲学もこれと同じもので、真理の頂は遥かに遠く、一代では到底たどり着けない。

多くの著名な哲学者が残した思想もまた道の途中であり、言ってしまえば未完成です。

それに興味を持たない人が多い中で、興味を持った僅かな人がそれを拾い上げる。

さらにその中の一部の人が受け継いで、現代においてもなお真理を目指していく。

タレスか、もしくはそれ以前の名も無き哲学者から始まった数千年に及ぶ知と思考の旅です。

魂が震えますね。

そして、私はそれを受け継いで後世に残していくバトンリレーの走者の1人なわけです。

私は、少し前に本を書こうと思ったんですが、それは今じゃないなと考えてやめました。

私がジジイになるまで生き延びて考えて、ギリギリまで進ませてから本を書こうと思っています。

それがどれだけの価値を持つかは分からないですけどね。

それでも、その続きを誰かが受け継いでくれるかもしれない。

だから、出来る限り私の集大成となるような本が書きたい。

それまではブログに今の考えを書いていこうと思います。

最悪、途中で野垂れ死んでもブログは残りますからね。

余談ですが、私の哲学は荒っぽい人達がいる獣の社会で培ってきた「獣の哲学」です。

その経験上、私は「人としての強さ」を重視しています。

この明らかに本流ではない派生系な感じが、自分の中で地味に気に入っています(笑)

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