リスクを受け入れる

哲学系記事
スポンサーリンク

辛い経験をしてきた人や知能が高い人は、他者よりもリスクを把握出来る人が多いです。

ただ、その能力が足枷になってしまう事も多い。

リスクの把握は、対処や割りきりが出来ないとただの恐怖になってしまいます。

特に対人関係はそうですね。

今回は、そんな対人関係のリスクを受け入れる話です。

踏み込むリスク

「助力が足りない」と「余計なお世話」ならどちらが良いか?

困っている人や悩みを抱えている人は、素直に話せる人ばかりではありません。

特に、心が弱っている人ほど打ち明けられないものです。

人間関係ならカドが立つ事を気にしてしまうし、力不足や努力不足を感じる悩みなら怒られる事や馬鹿にされる事を気にしてしまうからです。

例えば、上司のパワハラで苦しんでいる人は、誰かに話す事で上司の怒りを買うのではないか、さらに酷い扱いをされるのではないかという不安を抱えています。

「俺が直接文句を言ってやるよ」

というタイプの人が自衛隊や警察には多いんですが、当事者が望んでいるのはカドが立たないスマートな解決方法である事が多いです。

で、それが出来る人は少ないから、よほど信用した相手にしか話せない。

「あいつこんな事を言ってやがった」

と、手の平を返して裏切る人も多かったので余計にですね。

だから、問題を抱えている人から聞き出すのは難しいんですよ。

話せなければ解決出来ないのは当然なんですが、話すには覚悟と勇気がいる。

弱っている人にそれを求めるのは酷なんですよね。

私も過労死寸前の時は弱りきっていて、人に頼ったり相談する事が出来なくなっていたからよく分かります。

ただ、相手の意思を確認せず、推測で動くと「余計なお世話」になってしまう事もあるんですよ。

これまた相手の迷惑になってしまいます。

昔、このボーダーラインを完璧に見極めようとしたんですが、人の心理は複雑過ぎて難しい。

本気で隠そうとして警戒している人の感情は見抜けない事も多いです。

だから、出来る事はリスクを受け入れる事だなと私は思っています。

救えない事と迷惑をかける事のどちらがマシか?

私は迷惑をかけるかもしれないけど助けた方が良いと考えています。

なんとなく察していて救えなかったら、死ぬほど後悔しますからね。

推測が外れて迷惑をかけてしまったら、謝ったり、リカバリーや違う事に力を貸せば良い。

という、厄介な人間なんですよ私は。

ただ、勢いに任せて迷惑をかけまくるのは問題でもあるので、かなり慎重になります。

周りはおろか問題を抱えている人にすら気取られないように動く事も多いです。

私の理想は、問題を抱えている人が

「なんか運良く解決した」

と勝手に思う事です。

ミスったら迷惑をかけるし、文句を言われるし、嫌われるし、嫌な思いをさせる。

プライドが高い人を水面下で助けようとしていた事がバレて、本人に嫌われた事もあります。

他者に介入する時はそういう事もあるんですよ。

人助けは自己満足の域を出ないものです。

だから、誰かを助けようとする時は踏み込むリスクを受け入れる必要があったりします。

騙されるリスク

色々な人を見てきたから信用出来そうな人が分かるようになってきました。

しかし、それもある程度であって完璧ではありません。

人は深層心理と表層心理では全然違う性格である場合が多くて、見極めが難しいです。

私はわりと直感に頼るんですが、これは言語化が難しくていまだに上手く説明が出来ないです。

個人的には深層心理が純粋な人が分かりやすくて、表層では何かしら拗らせた面倒臭い人が多いです。

純粋であるがゆえに拗らせるんだろうなと考えています。

面倒臭さの中に純粋さが見えるんですよ。

だから、私が仲良くなる人は必然的に面倒臭い人が多くなるんですよね。

信用出来るからです。

ただ、「怪しいな」と思うような人でもある程度は信用するようにしています。

私はあまり人を疑いたくないんですよ。

人を疑ってばかりだと良い奴にも裏があるように思えてしまうし、猜疑心に囚われて色々な人を信用出来なくなってしまうからです。

まあ、他人を私利私欲で操ろうとする人は結構いますし、人には大なり小なりそういう部分があります。

これは人間の習性でもあるので、私はわりと許容しています。

大抵の人も程度の差によって許容するものです。

ただ、許容していると増長してしまう人も一部いるんですよね。

「あ、こいつは騙せる」

と錯覚して、エスカレートしていく。

私が裏切られるパターンは、この増長が多いんですよ。

共同資金を使いこまれたり、功績を横取りされたり、関係ない失敗の責任を押し付けられたり、報酬を不当に抜かれたり、仕事に必要という名目で関係ない事を散々させられたり…

ここでは書けない事も含めて、そういう事が腐るほどありました。

経験上、社会の底辺に近いほどこういう人が多かった。

結局、言葉か拳で殴らざるを得なくなるので、基本的に信用は「ある程度」になるわけです。

私が人生の中で嫌だなあと思う事の一つですね。

かといって、人間不信になって人を信用出来なくなる方が辛いんですよ。

スゲー良い奴を疑うのも嫌だし、好感を持つ人と仲良くなれないのも嫌だし、何よりも気楽に関われる相手がいなくなる事が嫌です。

だから、人と関わる時はよほど怪しい人物でない限り騙されるリスクを飲んで「ある程度」は信用するようにしています。

ワガママを言う

人間的にお互いを信用出来る前提での話ですが、相手に対して素直にワガママを言えるというのが重要なんですよ。

それも、ちゃんとワガママだと自覚した上でです。

ワガママを言う人ってのは、わりと普通にいるんですよ。

ただ、素直には言わずに自分を正当化して言う事が多いです。

誰かれ構わずワガママを言う人もいますが、大抵はワガママだと自覚していないですね。

逆に、ワガママを全く言えない人もいます。

一般的な良識があると、ワガママは悪い事として捉えられていますからね。

ワガママを正当化してしまう人も全く言えない人も、相手を信用しきれていないんですよ。

まあ、普通はそうです。

通常、信頼関係が出来ていない状態でワガママを言えば、相手の気分を害するでしょうし自分の評価が下がる恐れがある。

要するに「しょうがねえなあ」と受け入れられる自信がないと素直にワガママを言えないんですよ。

まあ、ワガママを聞いて貰えなくても関係に悪影響が無ければ問題は無いですね。

ワガママを言える相手がいる事は、精神の自立に関わってきます。

そういう相手が自分の後ろにいるから安心して成長する事が出来る。

そういう相手がいないと、どんなに歳を取っても頼る相手を探し続けてしまいます。

まあ、甘やかされ過ぎても成長はしないのでバランスが必要ですけどね。

私みたいなオッサンになると大抵は精神が自立するので、頼る相手がいなくても何とかなるんですよ。

自分を支えに生きていけるからです。

ただ、そうなる前の人には自立するまで必要になってきます。

私が若い人にクソ甘い理由の一つですね。

ワガママは相手に信用を置く指標にもなります。

受け入れられるとスゲー安心するからです。

だから、信用出来そうな相手がいたら、リスクを承知でワガママを言ってみるのも一つの手です。

まあ、そういう相手に巡り合うかどうかは運次第ですけどね。

そういう意味で若い頃の私は運が良かったと言えます。

余談ですが、私は同年代や歳上の自立出来ていないオッサンに依存される事が多いので、実はオッサンを警戒するんですよ。

そもそもオッサンは頼れる相手が少ないから依存度合いが半端ないですし、プライドが高いから若い人に比べて成長もしない。

なかなかの地獄なんですよね。

自分も経験があるから若い人の依存は許容出来るんですが、歳上のオッサンの依存に対しては

「今までの人生で何してたんだテメー」

と、正直なところ思ってしまうんですよ(笑)

まあ、私もまだまだ未熟なんですよね。

でも、トラウマになるほど消耗させられてきたので、オッサンのワガママは二度と聞かねえと思っています。

コメント

Copied title and URL