知性と心を備えた獣であれ

哲学系記事
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人には色々な役割があって、その役割の外にあることを無理に出来るようになる必要は無いと思っています。

どんなに腕っぷしが強い人間でも、経験も無いプレゼンを任されたらガチガチに固まって話せないでしょう。

社会で仕事をする時は合理性が必要ですが、教育やカウンセリングでは情緒が必要になる。

自分が持つ特性には、当てはまる役割があるんですよ。

今回は、そんな感じの話です。

耐久力

最近、自分の記事を読み返して反省した事が

「話さなくて良い事を話してしまった」

です。

どういう事かと言うと、負の出来事を書き過ぎててしまってるんですよね。

自分でも気をつけていたつもりですが、少しずつブレーキが緩くなっていました。

世の中は綺麗な部分も汚い部分もあって、私は汚い部分を死ぬほど経験してきました。

私は慣れているから気にもしないんですが、一般的な感覚だとショッキングな話も多いだろうと思います。

私も感覚が壊れているので、たまに常識の境界線が分からなくなるんですよ。

自慢する気は無いですが、私は生きてきた環境の影響と元々の特性によって精神的な耐久力がスゲー高いです。

フィクションで感動する事はあってもダメージを受ける事は無いですし、強い悪意や残酷な出来事に直面してもわりと平気です。

ネット上で受ける殺害予告なんて笑い話のネタぐらいに捉えています。

ただ、そのせいで普通の感覚の人や繊細な感覚を持つ人の気持ちに寄り添えない。

これは別に私が強いとか言いたいわけではなく、単純にその人達の感じ方が分からないだけで、それが自分でも少し嫌なんですよ。

人の痛みが分からなければ無意識に傷つけてしまうかもしれませんからね。

人にはそれぞれ精神の耐久力があって、人によってスゲー差があります。

耐久力が高い方が優れているとか偉いなんて事はなく、これは役割なんだと考えています。

私みたいに耐久力の高い人間はストレスに強い反面、他者に共感出来る幅が極めて狭い。

逆に、繊細な人間は傷つきやすいものの、様々な人の痛みに気付いて寄り添う事が出来る。

私自身も人に救われてきた身ですし、痛みに寄り添う事の大切さはよく理解しています。

それが自分で出来ないというのはもどかしいですが、だからこそ出来る人はスゲーと思います。

耐久力が高いほど心は鉄になり、人と柔らかく接する事が難しくなる。

まあ、つくづく人は完璧な存在にはなれないなと思います。

ただ、完璧である必要もないです。

何か一つでも出来る事があるなら上等なんですよ。

それをどう活かしていくかが大事です。

私の場合、人の気持ちに寄り添えないなら、それが出来る人を支えれば良いと思っています。

相互扶助が出来るから人は不完全でも生きていける。

完璧な人間になるよりも補い合う方が建設的なんですよね。

掃き溜めと一般社会のコントラスト

自分を心配する人から指摘をされた時、「自分が悪い」と考えられる人は、普通に善良です。

指摘された事を反省するどころか、相手を殴るのが掃き溜めの人間です。

善良な人ほど自分の中にある悪性を気にするものですが、その人達が持つ程度の悪性は私からすれば取るに足らないものです。

人は同じ地球に生きているとしても、生きてきた世界は全然違う。

善良な人間は善良な世界に受け入れられるから、そこで生きていけるんですよ。

もちろん、苦労もすれば辛い思いもするでしょうし、決して人生がヌルかったなんて言いたいわけではないです。

人は誰しも生きていれば大なり小なり苦労をするもので、それを比較する事に意味は無い。

私がクソみたいな世界を味わってきたのは私がクソだったからで、それは自業自得でもあるんですよ。

私は人なのか獣なのか微妙な連中の中で生きてきたから、真っ当な倫理観や道徳を持つ人達が綺麗に見えます。

人の痛みが分かって人に優しく出来る人達はスゲー尊い。

そういう人達がいるから社会は成り立っているし、そういう人達がいるから人は獣から人間になれる。

本心からそう思うんですよ。

ただ、獣みたいな連中は連中で、何かしら重たい物を抱えていたりします。

誰かがほんの少し手助けをしていれば、そうはならなかった奴もいる。

だから、完全に否定する気にもなれないし、正直なところ気持ちも分かる。

そのため、そういう人達をメインに据えた記事が多くなり、そういう時はクソ物騒で厳しい話になりがちです。

私のブログは想定してたよりも色々な種類の人が読んでくれていて、それぞれに必要な話は全然違うんですよね。

頭を撫でるような記事が必要な人もいれば、顔面をぶん殴るような記事が必要な人もいる。

マトモな人ほど自分で反省をしたりするから諭すだけで良く、むしろケアが必要になる。

逆に、イカれた連中は徹底的に論破するかボコボコにしないと治らない。

ここをブログで分けるのは本当に難しく、私が上手く出来ない部分です。

だから、いまのところは読み手の判断に任せるしかないんですよね。

前衛の役割

人は自分の幸せのために生きるべきだし、まず第一に自分を大切にすべきだと私は思っています。

基本的に、自分を幸せに出来るから他者に幸せを分けられるし、自分を大切にしているから他者を大切に出来る。

ただ、私は自分の命はあまり自分のために使いたくないんですよね。

精神的な耐久性と感覚のズレもあって、人から死ぬほど「歪んでいる」と言われる部分です。

しかし、生物的な役割としては、わりと自然な事だと私は思っています。

獣の社会の中でも、一定数は必ずこういう人がいます。

ちょっと運命論的な話になってしまいますが、この人種は「前衛の役割」を持っているのだと考えています。

ロールプレイングゲームなどでは複数のキャラクターでパーティーを構成して、1人1人に役割が決まっている事が多いです。

棍棒を持って襲いかかる相手と正面からドツき合う前衛、後方から魔法や回復を行う後衛。

この役割分担は現実でも同じようなものだと思うんですよ。

善良な人ほど暴力に弱いし、人に優しく出来る人ほど傷つきやすいし、賢い人ほど精神を病みやすい。

そして、人として良い部分を持つ人ほど世の中には怖いものが多くなります。

私は怖いものがあることを恥じる必要は無いと思っています。

「そんなものが怖いのか、俺は全然平気だぜ」

なんてクソ下らないマウントを取る気もないです。

例えば、大切なものがあると失う事が怖いのは当たり前なんですよ。

そういう人達は勇気や覚悟で恐怖を乗り越えています。

ただ、空っぽの人は失う事への恐怖が分からない。

怖いものが無いからといって別に強いわけではなく、単純にまだ恐怖を経験していないだけですね。

しかし、それを強さと勘違いして人の勇気や覚悟を笑い、大切なものを無価値だと貶し、足を引っ張ろうとする人間もいる。

そういう人達から大切なものを持っている人の心を守り、勇気と覚悟を支えるのが前衛の役割です。

また、人として良い部分を持つ人ほど出来ない事が増える。

その人達が出来ない事を肩代わりするのも前衛の役割だと思っています。

例えば暴力を受けた時、怒鳴り返したり殴り返したりする事が苦手な人は多いです。

そういう価値観の中で生きてきてないですから、経験が少ない事が苦手なのは当然です。

その人達に対しては、頻繫に起きるなら自分で対策出来るように教えればいいし、一時的なものや弱っている時なら前衛が対処すればいい。

前衛は後衛の補佐でもあるわけです。

そして、前衛は獣の社会の人間が向いています。

獣の社会の経験が長い人ほど、獣の習性はなかなか抜けない。

奥底に根付いた習性がアイデンティティになっていて、どこまでいっても獣は獣である。

しかし、それは悪い事ばかりではなく、人と戦う、危険と戦う、悪意と戦う、トラブルと戦う、災害と戦う、という世の中の負の側面に強くなります。

ただ、獣の習性が強い人は弱肉強食が正しいと思い込みがちで、マウントの取り合いに明け暮れます。

自然界ならともかく、高度な人間社会では望ましくない。

様々な特性を持った人が支えていて、それによって自分も支えられているからです。

私は棍棒やスマホで人を襲う野蛮人みたいな生き方はしたくない。

自分の特性を良い方向に使うために

「文明を知る野蛮人ではなく、知性と心を備えた獣であれ」

と、常々思っています。

優しい人は優しいままでいてくれれば良いし、

真面目な人は真面目なままでいてくれれば良いし、

素直な人は素直なままでいてくれれば良い。

それを支えるために前衛の役割はあるべきで、それを知るために獣の習性を持つ人には知性と心を持って欲しいと思っています。

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