神を信じなくなった世の信仰

哲学系記事
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日本人は基本的に神様を信じておらず、ほとんどの人間が信仰からは縁遠い生き方をしています。

信仰は精神の安定や幸せに影響するものですが、日本人は信仰の要となる神様を信じる事が出来ない。

私は、不安が増大した社会には信仰が必要だと考えています。

しかし、神様を信じられない以上、神様に拘らない信仰が必要になるんじゃないか?

今回は、そんな感じの話です。

日本人の信仰

以前、Twitterで

「今の日本人には信仰が必要な気がする」

という趣旨のツイートを見て「まさにその通りだ」と思いました。

日本では宗教と聞くと「胡散臭い」という価値観が強く、実際に胡散臭い宗教団体は多いです。

ただ、宗教は文化の中でも優れた発明なんですよ。

1000年、2000年前の世界では、多くの人にとって死が身近で、生活の安定が遠くにありました。 

その状態は多くの人にとって恐ろしく不安で、生きていくのが辛いものです。

そんな状況で心の安定に大きく貢献したのが宗教です。

人は不安になるほど何かを信じたいものです。

神という絶対的な存在に見守られて、その教えに従って暮らす事は多くの人にとって幸せでした。

信仰が強くなるほど人は神に背く事を恐れ、宗教が道徳の役割も強く果たします。

ただ、宗教が力を持ち過ぎると歪みも生まれます。

魔女狩りや宗教戦争なんかが分かりやすいですね。

人に効率良く苦痛と恐怖を与えるための拷問器具も、一部は宗教から生まれています。

何かを盲信すると人は思考停止してしまい、おかしな方向へ行っても気が付けない。

それゆえに私は宗教嫌いです。

しかし、信仰の持つ力は認めていて、なんなら人には信仰が必要だとすら考えています。

元々、日本は自然信仰と精霊信仰の国で、メジャーな宗教とは違った思想を持っています。

「八百万の神々」と言うように、ものスゲーたくさんの神様がいて、人は神と境界を隔てて共に暮らしていると考えられています。

神様にも色々いて、強大な力を持つ神様もいれば人間と変わらない…なんなら人間より弱く儚い神様もいます。

天照大神や大国主のような力のある神様だけでなく、座敷童子や天狗のような妖怪も神様として扱われたりします。

他の宗教で信じられている神様のように絶対の存在で信仰する者の味方というわけではなく、時に味方をし、時に仇なす存在です。

だからこそ神様を怒らせないためのルールがあり、それが大切にされてきました。

日本人にとって神様は、共に歩む存在なんですよね。

ただ、現代人の多くは神様を信じていません。

受験祈願のために神社に参拝しても、神様が志望校に合格させてくれると本気で考えている人は少ないでしょう。

それでも神社に参拝するのは、勇気と覚悟を持つための自己暗示の意味合いが強い。

現代における神様の主な役割は、人々に助力するというよりは「希望を与える事」と「背中を押す事」というわけです。

ただ、神様の本来の役割は心の拠り所です。

しかし、今の日本人は神様の存在を信じられないから心の拠り所にはなりえません。

「神様が見ているから頑張ろう」

「神様に胸を張れるように生きよう」

とはならない。

しかし、心の拠り所は神様じゃなくても良いんですよね。

ある時まで私は、日本人は信仰を失ったと考えていたんですが…

今の日本人の多くは「推し」を信仰しているのだと考えています。

「推し」の存在を心の拠り所にして、「推し」の生き方に希望を抱いて背中を押される。

だから、純粋に信仰している人は

「推しが生きていてくれるだけで良い」

と考えているんだと思っています。

で、SNSや現実世界を見ていても「推し」がいる人はメンタルが安定している人も多い。

宗教などに対する信仰と決定的に違うのは、「力のある存在の庇護下にある」のではなく「違う場所で共に歩む」というスタンスですね。

これ、八百万の神々の価値観に生きた日本人らしくて面白いなと思います。

その人にとって「推し」が八百万の神々の1人になると考えると、現代の信仰らしくてなんか良いですね。

個人的には誰かを攻撃するよりは建設的な精神の保ち方だと思うんですが、どうでしょう?

自分への信仰

宗教には教義があって、基本的には形を変えずに受け継がれていきます。

生き方の見本がそこに示されていて、自分の生き方を決められない人にとっては救いにもなっています。

ただ、私は哲学者なので自分の生き方は自分が決めるものだと考えています。

それゆえに全ての人の思想や生き方は全て「材料」であり、それらを加えて考える事から生まれる物が自分の生き方である。

私はそう考えています。

つまり、人生哲学ですね。

これは自分への信仰なんですよ。

私は最初、ニーチェやカントなどの著名な哲学者やアドラーのような心理学者の言葉を信じていました。

しかし、今はそれに疑問を持っています。

それらが未完成である事に気が付いたからです。

どんな人の言葉も、その時代のその環境にいたその人が出した、その時点での最適解でしかない。

現代を生きる私が、数百年前の異国の哲学者の道半ばの言葉通りに生きて上手くいくわけがない。

そもそも哲学とは疑問を持って考える事です。

高名な哲学者の思想を盲信するのは哲学者ではなく、ただ単に他人の言葉を覚えた人です。

他者の思想を吸収し、理解し、分解し、分析し、自分の哲学に作り変えていくのが哲学者です。

ニーチェやカントやアドラーの思想に疑問を持てないなら哲学者ではないんですよ。

それは哲学ではなく宗教です。

教義の形を守る宗教の継承と違って、哲学の継承とは…

「他者の思想を材料にして自分の糧にする事」

これが、あるべき姿なのだと考えています。

ただ、全ての人が自力で答えを出せるわけではないんですよね。

自分で生き方を考えるより、ある程度完成された正解を教わったり、誰かの言う通りに生きていたい人もいる。

そういう人には宗教が向いているんですよ。

三大宗教や新興宗教に入らなくても、今はオンラインサロンやセミナーが宗教代わりになって心の安定を図れる。

または会社などの組織に入って、そこで推奨される生き方に染まってもいい。

当初、私はそれに否定的でしたが…全ての人が自分の生き方を自分で決められるわけではない事を知り、今は肯定しています。

ただ…私は私の思想を盲信するのではなく材料にして欲しいと考えています。

そして、それが継承になる。

自分への信仰は、そうした哲学の継承を繰り返す事で生まれていくと考えています。

結末への信仰と制約

ヴァイキングの戦士が持つ価値観で、私が最も好きなのが

「勇敢に戦って死んだ戦士はヴァルハラへ行く」

というものです。

ヴァルハラは神々の世界にある館で、勇敢な戦士だけが迎え入れられるという場所です。

ヴァイキングの戦士達は、ヴァルハラへ行く事は大変な名誉であると考えていました。

個人的には、潔く戦って「ヴァルハラへ行ける」と信じながら死んでいけるのは羨ましく思います。

そういう結末に至るという信仰があると希望が持てるものです。

例えば、「必ず金持ちになる」という絶対的な決意があると、それが結末への信仰になります。

そうすると、将来的に金持ちになるから今がどんなに惨めであっても耐えられる…という精神になる。

信仰が自分の力になるわけです。

ただし、結末への信仰は楽観的になり過ぎると、ただの妄想で終わります。

そのため、制約が重要になってきます。

先に述べたヴァルハラへ行くためには

「勇敢に戦って死ぬ」

という制約があります。

ビビッて逃げたり、ガタガタ震えているだけではヴァルハラに行けないんですよ。

だからこそ勇猛に戦う必要がある。

そして、勇猛に戦うほど「自分はヴァルハラへ行ける」と強く信じられる。

だから、戦いを恐れない。

同じように「必ず金持ちになる」だけでは足りず

「この仕事で結果を出し続ける」

「この会社で人一倍努力して出世する」

みたいな結末へ繋がる自分への制約が必要になります。

そして、制約を果たすほど結末を強く信じる事が出来る。

結末を強く信じるから苦境にあっても精神が安定する。

単なる目標ではなく、「自分の結末」という概念が自分の精神を支えるから信仰になるわけです。

ただ…当たり前ですが自分の結末は自分が望むものでないと意味がありません。

例えば、今の若い人が将来に希望を持てない理由で

「我慢して嫌な仕事を続けて、貧乏に耐えて年金や保険料を払い続けた結果、孤独な老後を細々と暮らすだけ」

というような趣旨の事を言う人もいます。

そんな未来が見えていたら人生が嫌になるのは当然だと思います。

多くの人が勘違いをしている事ですが、人生って途中で野垂れ死んでも良いんですよ。

私は人生に対して

「やりたい事があるから生きる」

というスタンスで

「自分が選んだ結果なら最悪死んでもいい」

という覚悟です。

スゲー個人的な意見ですが…

私は結果的に野垂れ死ぬとしても満足できる生き方を望みます。

老後の事を考えて生きるのは1人1人に余裕があった高度経済成長期の価値観だと考えていて、なんで老後のために今の人生まで暗くしなければならんのだ…という感じです。

好きな事やって満足して死ねるなら、ジジイになるまで生きていなくても良いわけです。

昔、Uberをやっていた人で旅好きな人がいたんですよ。

「世界中を旅してから死にたい」

という考えで会社を辞めたそうです。

とにかく色々な仕事をして、節約して、3ヵ月に一度くらいのペースで少額の海外旅行をする。

先の事なんて考えてもいないし、貯蓄もないし、もしかしたら途中で野垂れ死ぬかもしれませんが人生は楽しそうに見えます。

「世界中を旅してから死ぬ」

という結末を望み

「旅行のために必死に金を貯める」

という制約を自分に課して生きている。

こういう生き方も本人が幸せなら全然良いと思うんですよ。

少なくとも「死にたい」なんて考えてはいないし、人生に希望を持っていますからね。

もちろん、安定を選んでもいい。

野垂れ死ぬ事が嫌な人もいるでしょうし、望んでもいない博打をする必要はないです。

安定を守りながら求められる幸せもたくさんありますからね。

誰かから教わった幸せではなく、自分が求める幸せのために生きる。

どういう生き方を望んで、どういう結末を求めて、どういう制約を自分に課すのか。

これを考える事も人生哲学です。

最後に老婆心なが言っておくと…

人は本気で絶望した時はシンプルに死ぬ事しか考えなくなるので、追い詰められる前に絶望しない生き方を選ぶ事をオススメします。

ちなみに私は、上司の顔面をぶん殴ってから人生がスゲー生きやすくなりました。

後でスゲー怒られて袋叩きにされましたけどね(笑)

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