善人の不義、悪人の慈悲

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よくある話で「良い人の悪い行いと悪い人の良い行いは目立つ」というものがあります。

目立つがゆえに、その一部分だけを見て他人の人間性を判断してしまう人もいます。

しかし、一時的な状況の善悪で人を計る事は出来ず、総合的な人間性を見ないと人を理解する事は出来ません。

さらには、その善性や悪性には自分や他者の言動が関係していたりするものです。

今回は、そんな感じの話です。

善性への安心感、悪性への不快感

通常、人は善性に対して安心感を抱き、悪性に対して不快感を抱きます。

善性や悪性というものは立場や肩書きに関係なく、その人の生き様に表れます。

不良やヤクザが好きという人もいますが、それは悪が好きなのではなく「強さ」を好んでいて、大抵の場合その人の中に善性を見ている事が多いです。

例えば、男気があって優しく義理堅い不良が好きでも、姑息で卑怯で他者を裏切ったり貶めたりする不良は嫌いだったりします。

不良やヤクザは社会では悪とされるカテゴリーですが、それと人間性は別という事ですね。

善性を偽善と捉えて不快感を抱く場合もありますが、基本的に人は善性に安心感を感じて悪性に不快感を抱くものです。

人は善性の人間に対して警戒を緩めます。

その警戒を緩めた状態で悪性を感じると著しく不安を抱く。

そのため、善人の不義はインパクトが大きくなります。

逆に、悪性の人間に対しては警戒します。

その警戒した状態で善性を感じると、スゲー安心する。

そのため、悪人の慈悲はその人の評価を大きく変える事もあるわけです。

また、人は他者に対して安心感を抱いていたいもので、相手が自分に都合の良い存在でいて欲しいという願望が大なり小なり存在します。

他人が自分に対しては善人でいて欲しいと望むのは、ほとんどの人が抱く感情です。

生物としての危機感から来る根元的な不安を他者に対して持っていて、大抵の人は悪性の人間と関わりたくないものです。

人に警戒心を抱くのは疲れますし、ストレスにもなりますからね。

それゆえに警戒心を抱かない善性の人間を好みます。

ただ、あまり賢くない人は警戒心を抱かなくて済む相手を見下しがちです。

こういう人は強さの基準が「脅威」になっているんですよ。

警戒心を抱かない相手には脅威を感じないから、善性の人を「弱い人間」と捉える。

そのため、善人を蔑ろにする人が一定数存在します。

しかし、それは考え方が少し幼い。

私が色々な記事で話してきた事ですが、人としての強さは色々あります。

探求する事、努力する事、前向きな事、優しい事、自制する事、反省する事、愛情を持つ事、素直でいる事、勇気を持つ事、理不尽や困難と戦う事…などなど、善性は人として誇れる強さです。

これらは得難く、簡単に身に付くものではありません。

逆に、自分を大きく見せる、人を騙す、他人を見下す、他人を貶める、自分より弱い相手に暴力を振るう…などなど、悪性の行動は簡単に行う事が出来る。

だから、どちらかというと弱い人間が好んで行う行動なんですよね。

人の一部ではなく、人を全体的に見ていけばスゲー良く分かります。

で、どんな人でも善性と悪性の両方を持っていて、一部分だけで人を判断する事は出来ない。

どんな善人でも悪性の行動をする事がありますからね。

しかし、人を総合的に判断出来る人ばかりではない。

これは完全な経験測ですが、人を総合的に判断出来る人は社会全体の半分ぐらいしかいないと思っています。

人は清濁を合わせ持つもので、善人も不義を働くし、悪人も慈悲を見せる事もある。

しかし、その直近の行動だけ見て善悪を判断する人が多いように感じます。

例えば、炎上した有名人に対する大衆の反応。

その人が過去にどれだけ努力して、どれだけ善行を積んでいたとしても、炎上した件だけで「最低な人間」として扱う。

こういう人をよく見かけます。

まあ、この記事を読んでいる人はこれが間違いだという事が分かると思います。

人は善性も悪性も合わせ持つもので、大事なのはその割合です。

たまたま一瞬だけ表に出た悪性なんて大した問題ではないんですよ。

ただ、これが分からない人も世の中にはいるものです。

それゆえに、極端に不義を叩こうとする流れが生まれてしまうわけです。

背景

私はたまに

「そんな人だとは思わなかった」

と、ガチのトーンで言われる事があります。

それはどういう時かというと、何かしらの背景がある時なんですよ。

例えば、私は人を騙すのが好きではありません。

しかし、「人狼ゲーム」などの駆け引きをするゲームなどでは全力で人を騙します。

そういうゲームですからね。

逆に、人狼ゲームで騙し合いをしないと、空気が読めていない人になってしまいますし、面白くない。

しかし、それを不快に思う人もいます。

また、私は理不尽が嫌いですが、悪ふざけをする時は理不尽な言動をします。

冗談や悪ふざけの範疇に収まる理不尽さは面白いですし、クズっぽい言動やバカっぽい言動は笑いの鉄板ネタですからね。

逆に、冗談や悪ふざけまで堅物だと面白くない。

しかし、関係性を知らない第三者に、冗談で言った事を非難される事もあります。

私は、日常での人間性と特定の背景がある状況下での言動は別だと思ってるんですよ。

しかし、これを一緒くたにして考えてしまう人が一定数存在します。

例えば、俳優がドラマで性格の悪い役を演じると、その俳優を非難する人がいるんですよ。

役と本人の性格は全く別の話ですが、道理と感情を分けられずに俳優を嫌な奴だと捉えてしまう。

そして、不快感を自分で処理出来ずに相手にぶつけるわけです。

他に分かりやすいのがエンターテイメントで、タレントは面白くするために過激になったり、どうしようもない人間やアホな人間を演じたりします。

ただ、エンターテイメント上のキャラクターを、そのまま人間性だと考えてしまう人がいるんですよね。

なんやかんや人間性というものは滲み出るものですが、エンターテイナーは面白くするために本心とは違った言動をする事もあります。

ネタも本心もひっくるめてエンターテイメントなんですよ。

しかし、これが分からない人が結構いるものです。

そのため、エンターテイメント内のネタや冗談を真に受けてしまうわけです。

また、人は余裕が無かったり、疲れていたり、精神的に傷ついていたりすると、普段と違った言動をしたりします。

分かりやすい例で言うと、明るくポジティブな人間でもスゲー落ち込むと悲観的で後ろ向きな考え方になります。

本来とは違う一時的なそういう姿を見て「本当はこういう人なんだ」と考えるのは間違いですよね。

これらは相手を理解していないから分からないんですよ。

その人の性格や価値観を理解していれば、冗談や様子がおかしい時は違和感を感じるから分かるものです。

逆に、相手を知ろうとせずに自分に都合の良いイメージばかりを押し付けていると、違和感を感じるのではなく失望します。

これは対人経験が浅い人にありがちな行動ですね。

人間はベースとなる人格はそれとして、抱えている背景で言動は変化します。

そういう変化を受け入れられないと、上辺だけの関係になってしまいがちです。

だから人は通常、比較的に理解しやすい自分と価値観の近い人と親密に関わろうとします。

ただ、価値観が離れている相手ほど理解するのは難しいものですが、理解する気があればいずれは距離が縮まって分かるようになります。

この自分と違う価値観を理解していく事を「価値観を広げる」と私は呼んでいます。

頭が柔らかい人ほど他者への理解力が高いものです。

ちょっと脱線しますが、人混みを歩く時にスイスイ避ける人と全く避けない人がいます。

私は、自分から避ける人は賢いと思っています。

これなんでかというと、自分から避ける人は世の中に合わせる人であって、賢い人ほど避けるのが上手いと考えているからです。

逆に、避けない人は世の中の方が自分に合わせてくれると考えている人で、その傾向が強いほど全く避けないと考えています。

分かりやすいのが「歩きスマホ」で、あれは他人が避けてくれるのが当たり前だと思っているから出来る行動なんですよ。

賢い人でも歩きスマホをする人もいますが…人混みでやる人はまずいないですね。

同じ人混みでも歩きやすい場所と歩きにくい場所があって、歩きやすい場所は賢い人が多いんだろうなと考えています。

「世の中に合わせる事」と「世の中が自分に合わせてくれる事」のどちらを基準に考えているかが、歩き方に出ると考えられるわけです。

まあ、全てが必ずしもそうだとは言い切れませんけどね。

世の中は自分に都合良くは出来ていないものです。

自分1人の都合で世の中は動かないから、自分から合わせていく必要がある。

で、これは他者を理解する事でも同じなんですよ。

自分の価値観に合う人間だけを認めていたら、世の中は気に入らない人間だらけになります。

だから、相手の価値観や人間性を理解していく方が合理的なんですよね。

バタフライエフェクト

今もそうですが、私は他者の行動によって平和に生きる道を失いがちなんですよ。

最近だと私の個人情報などの問題があったりしましたし、今でもnoteの下書きなどの内容が外部に漏れていたりします。

収拾がつかなければブログやSNSを全て畳んでネット上から姿を消すか、ブログを残したまま海外に行くかを選ばなければならない。

で…これに関わった人達の全てが必ずしも悪意があったとは言い難い。

単純に自分の行動がどのような影響を及ぼすのか分からないんだと思います。

他人の事情なんて知らない事があるのが当然だから、自分の想像がつかない状況や事態は普通にあるものです。

スゲー極論を言うと、自分の行動によって自分の知らない所で人を死なせている事もあるし、その報復を受ける事もある。

だから、考え無しに不法な行動や不道徳を働かない事が大切なんですよね。

バタフライエフェクトは元々の使われ方は力学的な問いかけですが

「蝶の羽ばたきが遠くの場所で竜巻の発生に影響する」

という仮定のように、小さな行動が原因となって大きな事態の発生に影響するという例えによく使われますね。

何かの問題が起きた時、自覚の無い自分の言動が原因かもしれません。

例えば、仲良くしていた人が会話をしていたら突然キレ始めた時。

自分からすればワケの分からない行動です。

ただ、そのキレた理由の根本には自分の無神経な言葉だったり、無作法の積み重ねがあったりする場合があります。

自分では問題視していない行動が、誰かにとっては問題になっているというわけです。

もっとスケールの大きい話をすると、誹謗中傷があります。

誰かに傷つけられた人間は、上手くケアをしないと悪性が強くなりやすいんですよ。

自分が悪意を向けて傷つけた相手が、また違う誰かに悪意を向けて傷つける。

その違う誰か達が有名人などに攻撃をして、影響力のある人の悪性が強くなる。

影響力のある人が自分を攻撃した人に向けた怒りや恨みを発信して、それが不特定多数に影響して大勢の悪性が強くなる。

すると、世の中に悪性が強い人が増えて、自分を攻撃する人や騙そうとする人が増える。

という負の連鎖が起きる。

「悪い奴だ」と思う人がいた時、その悪性が大きくなった原因に自分の影響が含まれているかもしれない。

極論を言うと、自分を苦しめる人間を自分で生み出しているかもしれない。

人に悪意を向けるという事はそういう事でもあるんですよ。

逆に、善性もバタフライエフェクトになり得る。

誰かに向けた善性が連鎖して大きな影響になるかもしれない。

これも十分に起こり得る事です。

私の世直しの基本的な考え方は、社会全体の善性を高める事なんですよ。

善人が増えれば、真剣に社会の事を考えて行動する人が増えますからね。

蝶の羽ばたき方によって、善人に不義を働かせる事もあれば悪人に慈悲を持たせる事もある。

だから私も、路傍の哲学者として羽ばたきを起こすわけです。

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