「賽は投げられた」

哲学系記事
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古代ローマの傑物ガイウス・ユリウス・カエサルの有名な言葉です。

権力争いの最中、政敵を討つためにカエサルは軍を率います。

ローマとの境界線となるルビコン川。

軍を率いてここを渡れば、明確なローマへの反逆となる。

一度渡ってしまえば敵を倒すか自分が倒れるか、どちらかの運命が待っている。

「ここを渡れば人間世界の破滅、渡らなければ私の破滅。神々の待つところ、我々を侮辱した敵の待つところへ進もう、賽は投げられた。」

味方にそう言い放ってカエサルはルビコン川を渡りました。

「賽は投げられた」は

「運命に向かって進み出したら後戻りは出来ない、結末がどうなろうとやるしかない」

という意味です。

今回は、そんな感じの話です。

運命のサイコロ

賽とはサイコロの事です。

サイコロは遥か昔から存在していて、占いや賭博に使われていました。

賭博としてはサイコロを使ったポーカーが有名ですね。

古今東西に共通するサイコロ賭博のルールとして

「一度サイコロを振ってしまえば降りる事は出来ない」

というものがあります。

一度サイコロを振ったら、その結果がどうであろうとも無かった事には出来ません。

カエサルにとってルビコン川を渡る事は同じ行為で、一度渡ったらローマへの反逆は無かった事に出来なかった。

ローマを手に入れるか、反逆者として処断されるか、運命は二つに一つ。

それゆえに「賽は投げられた」というわけです。

これは迷いを断ち切って進むための言葉なんですよね。

「やっぱりやめます」と言える範囲を越えてしまったら、迷っても意味が無い。

後は成功か失敗の結果しかないから、迷わずに突き進めという事ですね。

古来よりサイコロは「運命」の例えに用いられる事が多いです。

サイコロを振ったら、結果が出るまで出目が良いか悪いかは分からない。

人生の選択もまた同じで、結果を見るまで吉か凶かは分からない。

未来が分かる人でもない限り、結果を見るまで運命は分からないですからね。

良い結果になる確率を高める事は出来るけれど、確実に良い結果を手に入れる事は出来ない。

結局のところ、やってみないと分からない。

全てはサイコロの出目次第というわけです。

また、私が警察官に受かった時、友人から「将来安泰だな」と言われた事がありました。

当時の私はアホだったから「そーなんだー」とぬか喜びしていたんですが…

警察学校は地獄だったし、勤務は激務だったし、気を抜けば懲戒免職になる事も多いし、プレッシャーも半端ない。

だから、いつもギリギリでした。

組織は安定していても私の立場は全く安定していなかったわけです。

これは警察官になってみないと分からない事でした。

ただ、吉か凶かというと…どちらとも言えない。

激務に耐えられず2年で退官したから、そこだけ見れば失敗と考えられる。

しかし、私は警官時代に学んだ事がクッソ多くて、曲がった性根が叩き直されたのも警官時代だったんですよ。

だから、結果は悪くても経験としてはスゲー良かった。

賭博のサイコロなら結果がハッキリ出ますが、運命のサイコロは成功か失敗だけでなく経験という結果もあるわけです。

サイコロを振る

冒頭のカエサルの話を思い出して欲しいんですが、カエサルはルビコン川の手前で「賽は投げられた」と言っています。

実際にはまだ引き返せるタイミングでの発言なんですよね。

「もう引き返せない」と言いながら、引き返せなくなるラインを越えたわけです。

「賽は投げられた」には「決断」の意味もあるんですよ。

個人的に最も重要なのはここだと思っています。

行動を起こした後って、やるべき事がハッキリしているから実はそんなに悩まないんですよね。

一番迷うのが行動を起こす時…つまりサイコロを振る前です。

人には「決断力」という能力があります。 

結果や結末が分からない事を選ぶのは誰もが不安で誰もが悩む事です。

その状態でも自分が正しいと思う道を信じて、どのような結果であっても受け入れる覚悟をする。

それが決断力です。

「賽は投げられた」は、この決断力を支える言葉でもあるわけです。

なかなか決断出来ない人がよく陥ってしまう勘違いの一つに

「正解が分からないから決められない」

というものがあります。

これは失敗を極端に恐れているからだと私は考えています。

失敗する事を恐れ過ぎてしまうが故に、正解がハッキリしている事にしか手を出せなくなってしまうわけです。

世の中には正解の無い問題が多いです。

私は好奇心が強いので変わった飲み物や食べ物があるとすぐに手を出します。

で、失敗する事も多いから、不味い物を我慢して食べるという事態によくなります。

一方で、私の知り合いは自分が見知った物にだけ手を出すので、私の行動が理解出来ない事も多いです。

「失敗して嫌な気持ちになりたくない」

と知り合いは言っていて、その気持ちはよく分かります。

ただ、根本的に違うのは…

私は、賭けに負けて不味い物に当たる事が前提なんですよ。

知り合いは、不味い物を食べる事が不幸だと考えていて徹底的に避けようとする。

これはどっちが正しいかという事ではなく、瞬間の捉え方の違いだと考えています。

美味しい物を食べるのは幸せです。

私の場合は、この先の人生の中でその瞬間は訪れると思うから、必ずしも今が幸せである必要はない。

まあ、次に美味しい物を食べる前に死ぬ可能性はありますが、それならそれで仕方ないと考える。 

だから、即決で好奇心を満たす。

知り合いの場合は、今この瞬間が幸せでいたい。

そのためには選択で失敗しないようにしたい。

だから、時間をかけて手堅い物を選ぶ。

そういう違いがあります。

で、知り合いから時々

「なぜすぐに正解が分かるんだ」

と聞かれる事があったんですが、私は正解なんて知らないんですよ。

正解を求めているのではなく、成功と失敗のどちらなのかを知りたいから即決してるだけです。

100%成功する方法、100%失敗しない方法はない。

だから、当たるまでサイコロを振るという考え方です。

当然ながら死ぬほど失敗してきたし、失敗の数は他人よりも多いと自負しています。

ただ、失敗から学べるものがクソ多かったし、失敗し過ぎてあまり恥を感じなくなったし、失敗という結果が出た後でも上手いこと軟着陸させられるようになった。

極端に失う物が多いとかじゃなければ、いまさら失敗を気にしないわけです。

決断力は失敗に対する考え方なんですよ。

失敗をしなくなる方法は、全力で挑んだ失敗を何度も経験する事。

失敗を恐れない方法は、もっと先の未来を見据える事。

それらを踏まえた行動が決断力になる。

私はそう考えています。

冒頭で話したカエサルは欠点や失敗も多く、わりと悪事も働いてきた人物なんですよ。

完璧とは程遠い人物ですが、運だけでなく行動力と決断力に優れた人物でした。 

それゆえにルビコン川を渡るという人生の大きな賭けに出る事が出来た。

その行動力と決断が顕著に出たのが「賽は投げられた」という言葉だと私は思っています。

未来を見据えてルビコン川を渡り、失敗を積み重ねた経験でローマを手に入れた。

大きな物を求めるなら臆せずにサイコロを振り続け、いつか己にとってのルビコン川を渡れという事です。

自信のサイクル

決断力と行動力を支える要素として自信があります。

自信はわりと変動するもので、どんな人も日によって自信があったり無かったりします。

自信がある時は「自分は出来る」という気持ちが強いので、行動や決断が容易になる。

逆に、自信が無い時は行動や決断がなかなか出来なくなる。

ただ、自信には「質」があると私は考えています。

若い頃、WAIS-Ⅲという精神検査で自分のIQが130以上あると知った時、私はスゲー自惚れたんですよ。

恥ずかしい話ですが、選ばれた特別な存在だと自分で思っていました。

ただ、凡人である事を受け入れた今の私よりも、当時の私は圧倒的にアホだったと断言出来ます。

IQが高いだけではあまり役に立たない。

何らかの能力や行動と結びつけないとプラスにならず、そのままではコミュニケーション能力に難があるというデメリットしかない。

それを当時は分かっておらず自惚れていた。

中身の無い事を誇っていたから、自信の質が悪かったんですよね。

警察学校に入るまで私はちゃんとした努力を覚えず、言い逃れや嘘で人を騙す事で乗り切ってきました。

それは賢いとは言えない行動なんですが、それが出来る自分は他人より頭が良いと勘違いしていた。

その勘違いだけが自分の誇りだったんですよ。

まあ、その勘違いに警察への挑戦を後押しされたから、必ずしも悪いと言える物ではありませんでした。

しかし、警察学校に入ってから自分がとんでもなく無能だと気が付きます。

周りは警察官になるために努力を積み重ねてきた人ばかり。

一方で、私は口先と手八丁に頼って、その場しのぎで生きてきた。

同じ年齢でも信じられないくらい差があって、質の悪い自信はポッキリと折られたわけです。

今思えば本気で努力し始めたのはそこからなんですよね。

真っ当な努力をして結果を出すと、人は少しずつ自信を身に付けます。

ただ、私はアホだったから自信をつけたらすぐに天狗になる。

警察学校はそういう所にスゲー厳しいから、天狗になるとすぐに叩きのめされるんですよ。

だから、すぐに自信を失います。

自信を持つ→自信を失う→自信を取り戻す

このサイクルがずっと続いてました。

まあ、軽く拷問みたいな感じなんですが、このサイクルの恩恵は大きかった。

一つ、挫折に強くなった。

二つ、あまり慢心せず成長し続けた。

三つ、自信の質が高くなった。

自信の質が高くなってどうなったかというと…

行動に見合った分だけの自信がついて調子に乗りすぎなくなり、自信を失った時は落ち込み過ぎず冷静になるようになり、バランスが取りやすくなりました。

また、自信のサイクルを生活に落とし込めるようにもなった。

人は上を見上げたり、現実と向き合ったり、厳しい意見にさらされたりすると、わりと簡単に自信を失います。

イメージ的に、自信は向上のために消費する燃料みたいなものだと私は考えています。

失敗や挫折や反省をする度に消費して、その代わり経験によって精神や能力を向上させる。

そのために満タンにして、消費して、また給油するというサイクルを繰り返していくわけです。

で、私はガンガン向上したいから、自信のサイクルを早く回したい。

そのため、何か大きな事を達成した時だけ自信を得るのでは効率が悪いから、自信は日常的に回復していく必要がある。

普通は、人に褒められたり励まされたりして回復するものですが、私はそれが苦手なんですよ。

だから、自分の行動で自信を回復させる。

筋トレをする、勉強をする、節制をする、節約をする…などなど、日常の中にちょっとした我慢や努力を取り入れて、それを達成していく事で少しずつ自信を貯めています。

自信を失っていると決断力や行動力が鈍るから、なるべく自信は維持した方が良い。

しかし、自信を維持し続けるのは難しく、長く維持しようとしたら停滞か下り坂が多くなる。

自信を失うのは痛みを伴うので辛いんですよ。

人によっては耐えられなかったりします。

死ぬほど味わってきた私でもキツイですからね。

だから、ある程度の自信を持った人は挑戦をやめて、停滞か下り坂を選んでしまいやすいです。

別にそれでも構わないと思いますが、単純に私は嫌なんですよ。

自信の回復を早くするのが最も効率が良いから、痛みを覚悟でサイクルを早く回すわけです。

まあ、この話をすると大抵の人には頭おかしいと思われるんですけどね。

また、自信のサイクルを繰り返す中で気が付いた事が

「自分は凡人である」

という事です。

自分は特別な存在ではないし、特別な運命を持ち合わせてはいないし、特別な力もない。

俯瞰的に見れば有象無象の1人です。

ただ、これは諦めや悲観の感情ではありません。

私は自分が凡人かどうかなんて大した問題ではないんですよ。

例えば、名作RPG「ドラゴンクエスト」は勇者という特別な存在が魔王を倒しに行く物語です。

当然ながら私は勇者ではなく、その辺の村人の1人です。

ただ、魔王を倒しに行くのは勇者じゃなくても良いと思っています。

魔法も使えないし伝説の武器も持たない村人が、ひたすら体を鍛えて魔王を殴り倒すストーリーがあってもいい。

人は自分の運命を変えるためにサイコロを振れる。

何かを成し遂げるのは特別な存在じゃなくても構わないわけです。

特別な力が無いなら、変わりの力を手に入れればいい。

だから私は肉体や思考を鍛える事を好みます。

特別な運命を持たないなら、当たりが出るまでサイコロを振り続ければ良い。

天皇家に生まれていたなら特別な運命を持っていると考えられますが、私は北の大地で野良犬みたいなガキとして生まれました。

そんな奴でも世の中を動かしたいなら、挑む事は出来る。

人の人生は何かを手に入れていくものです。

特別な何かを持たずに生まれても特別な何かを欲するなら、手に入れるために足掻けば良いだけ。

だから、凡人だって構いはしねーんですよ。

大事なのはサイコロを振る事です。

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