狼少年と獣の社会の掟

哲学系記事
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最近、私が読んでいる本が「イソップ寓話」です。

物語として見たらクソつまらない本なんですが、考え事をする材料として見た時は非常に面白い本です。

その物語群の中で「嘘をつく子供」という話があります。

日本では「狼少年」という名前の方が通りが良いかもしれません。

嘘をつく子供が大人に信用されなくなり大事な物を失ってしまう話ですね。

今回はこれの何が問題だったのか、どうすれば良かったのかを考えていこうと思います。

イソップ寓話「嘘をつく子供」

まず、知らない人やうろ覚えな人向けに寓話の内容を話していきます。

ある村に羊飼いの少年がいました。

羊飼いとは、羊を放牧して草を食べさせ、時間になったら羊を集めて厩舎に戻す仕事です。

羊を放牧している間はスゲー暇になります。

現代と違ってスマホも無く、少年は退屈を持て余していました。

退屈をしのぐために少年はイタズラを思いつきます。

「狼が来た!」

と大声で叫べば、村人がビックリして飛び出してくるのではないか?

そう考えました。

羊は村の貴重な財産で、狼に食べられてしまうと村の生活は苦しくなります。

そのため、狼に食べられないように羊の見張りをする事も羊飼いの仕事でした。

イタズラを思いついた少年は実行します。

「狼が来たぞ!」

と叫ぶと、村人は武器を手に慌てて集まってきました。

その様子がマヌケに見えた少年は笑い転げます。

嘘だと知った村人の中には怒ったり呆れたりする人もいましたが、大抵の人は「仕方ない」と苦笑いで許しました。

イタズラの楽しさを知った少年は、翌日もそのまた翌日も同じイタズラを繰り返します。

その度に村人は慌てて集まって、少年はその度に笑い転げました。

ただ、何度もイタズラを繰り返す少年に対して腹を立てる村人が多くなり、少年の立場は少しずつ悪くなっていきました。

ある日、本当に狼が羊を襲いにやってきました。

少年は慌てて「狼が来たぞ!」と叫びます。

しかし、村人は誰も来ません。

「本当に狼が来たんだ!」

と少年が必死に説明をしても、村人は誰も取り合おうとしない。

その結果、羊は狼に食べられてしまいました。

…ここから補足です。

当時の社会では仕事が村での立場であり、自分の居場所になっていました。

羊飼いは少年に与えられた仕事で、これを全うする事で村に受け入れられていた。

しかし、羊を失う事で仕事を失い、それは村での居場所を失う事になります。

今の日本社会と違って仕事が豊富にあるわけではなく、仕事にありつけるのは運が良い方だったんですよね。

物語では語られませんが、少年は羊と一緒に自分の居場所を失ったと考えられます。

また、日本版の話では羊ではなく少年が狼に食べられた事になっています。

この話の重要な補足点は、村人だけでなく少年も大切な物を失ったという事です。

目線の違い

この話の趣旨は信用を失うと不利益を被るという点にあります。

少年はイタズラを繰り返した事によって村人の信用を失い、本当に困った時に助けて貰えなくなってしまった。

客観的に見たら当然の反応に思えますよね。

実はこれ、少年目線だと捉え方が違うんですよ。

イタズラは楽しいし、村人はイタズラを許してくれているから問題ない。

こんな感じではないでしょうか?

しかし、村人目線ではまた違います。

仕事を途中で放り出して武器を取り、慌てて集まったら嘘だった。

まあ、腹が立つし徒労感も味わいます。

それでも、最初は「子供のイタズラだから」と許す人も多かったでしょう。

ところが、連日同じような事が起こります。

「また嘘かもしれない」

と疑うのは精神的に疲れるし、嘘だと分かった時はドッと疲れます。

さらに、同じ事を繰り返す少年を見た村人は、「反省をしていない」と考えてしまいます。

そのため、少年に対する信用を失っていき、少年の助けに応じる事がストレスになっていく。

そして、本当に狼が来た時は少年に対する信用を完全に失っていて、助けに応じなかったわけです。

村人は少年に対して信用があったからこそ腹を立てるし疲れるんですよ。

例えば、嘘をついたのが村の外にいる山賊だったら、そいつらをぶっ殺せば良いという話になります。

しかし、少年は村の身内で仕事を任せている人間だから信用があります。

信用があるからこそ助けに応じるし、信用があるからこそ騙された時に葛藤する。

そして、信用があるからこそ最初の方は許します。

しかし、信用のある相手に騙され続けると、人はストレスに耐えられなくなるんですよ。

そのため、自分の心を守るために相手に対する信用を失っていく。

かなり信用を失った時は、関わらないか敵対しないとストレスに耐えられない。

だから、村人は少年の助けに応じなくなったわけです。

信用出来ない相手を助ける事は、スゲー辛いものですからね。

信用とは、いかにストレスを感じないかという事でもあります。

例えば、真面目な人といい加減な人に何かを任せる時、前者の方がストレスになりにくい。

何かを任せる時、真面目な人の方がしっかりやってくれそうで安心出来ますからね。

このようにストレスになりにくさが信用と言えます。

だから、必ずしも自分の心持ちだけでどうにかなるものではなく、相手の行動も重要になってくるわけです。

信用の無い相手に「信用してくれ」と言われると、若干嫌な気持ちになる人もいると思います。

これは、「ストレスを受けてくれ」と言われているようなものだからですね。

また、許すという行為は無償ではなく、大なり小なり信用を消費します。

だから、許しを得たら相手の信用を回復していく必要があるわけです。

まあ、日常で信用を失う事はそんなにないし、きちんと謝る事が出来れば大抵は丸く収まるんですけどね。

獣の社会の掟

私の部隊にいた自衛官は、一般的に言えばロクでもない奴も多かったんですよ。

ただ、ほとんどの人間が「仲間を裏切らない」という獣の社会の掟を大事にしていたんですよね。

自衛隊みたいな組織だと仲間を失ったらまず生き残れません。

だから、他の誰を裏切っても仲間を裏切らないように気をつけます。

「仲間を騙したり利用した方が得?」

「そんなものは知らねえよバカが」

というのが、私がいた場所の流儀です。

自分だけ得をしない、1人にだけ損をさせない、約束を破らない、仲間を騙さない、仲間を疑わない、仲間を利用しない、仲間を見捨てない。

このタブーを何度も犯してしまうと、信用を失って仲間でいるのが難しくなってしまうんですよね。

何も杓子定規に掟を守っているわけではないし、厳格に裁いているわけでもない。

なんやかんやバレないように上手くやる奴もいるし、不義がバレたら潔く制裁を受ける奴もいます。

完璧に掟を守る奴もまたいないので、喧嘩にもなるし償いをする事もある。

信用を失ったり回復したりしながら上手くやるんですよ。

ただ、あまりにも不義を働いたり、信用を回復しなかったりすると敵対しますね。

だから、どんなに気まずくても謝ったりケジメをつける事がスゲー大切だったりします。

「仲間を裏切らない」という掟は、誰かに教わるでもなく自然と学んでいくものです。

楽しさを共有したり、共に苦難を乗り越えたり、喧嘩したり和解したり、助けたり助けられたり、感謝したり感謝されたり、謝ったり許したり、人と関わる中で身に付けていくものです。

それらは必要な事で、そういう経験をしないと本当の意味では身に付かない。

だから、人と本音でぶつかっていく事が大切です。

別に不和になったら終わりなのではなく、その後の行動次第でいくらでも修復は可能なんですよ。

前に聞いたフランス外人部隊の話です。

大きなヘマをして仲間に迷惑をかけた隊員が、ビールを1ケース買って仲間に差し入れしたそうです。

ビールをドンッと置いて

「すまなかった、これで許してくれ」

と素直に謝る。

それを見た他の仲間はサッパリと許したそうです。

誠意を見せた相手を快く許す。

こういうやり取りは漢気があって、私はスゲー好きなんですよ。

気持ちがいいですよね。

で、寓話の少年にまず必要だったのは謝る事です。

許す方も、謝られないと許すのが難しいんですよ。

そして、村人は村人で怒る事が必要だったのかもしれません。

人間は、他人の反応を見ながら社会性を学びます。

当初、少年はイタズラを悪い事だと自覚していませんでした。

自分を客観的に見るのは難しいので、自分の行いが間違っている事に気付くのは難しい。

しかし、村人が少年に対して怒っている事を伝えたら、少年は悪い事をしたのだと気付く事が出来ます。

怒りを爆発させてばかりだと人生はつまづく事も多くなりますが、相手を嫌ったり憎んでしまう前に怒る事は正しいと私は思っています。

相手の行動をコントロールしようとするわけではなく

「これをやられたら俺は怒るぞ」

という意思表示をしていくのが大事なんですよ。

私は一般社会よりも獣の社会の価値観が強いので、仲間に対して誠実である事がベースになっています。

逆に、自分に対して誠実でない人間を仲間としては認められないし、自分自身が仲間に対して誠実でいないと気後れして仲間の輪に入れない。

誠実であるという事は、何もスゲー良い人でいるという事ではありません。

獣の社会の掟を守る事と掟を破った時にケジメをつける事。

ただ、それだけです。

私も聖人には程遠いし、そんな人物には数えるほどしか出会っていない。

自衛隊には見栄っ張りな奴、大人しい奴、乱暴な奴、優しい奴、真面目な奴、いい加減な奴、明るい奴、暗い奴、色々な人間がいます。

しかし、掟を守るうちに自分と趣味も考え方も全く違う相手でも打ち解ける事が出来る。

私の世代はアニメを見ていると「オタクだ」と馬鹿にする人も多かったんですが、そういう人とすら仲良くなれる。

どんなにどうしようもない奴であっても、掟を守れば仲間が出来るのが獣の社会です。

別に怒る時は怒るし、調子に乗る時は調子に乗るし、迷惑をかける時は迷惑をかける。

それでも上手くいくんですよ。

逆に、聖人であっても掟を守らない人間は敵になるのが獣の社会の面白いところです。

仲間に対する誠実さと良い人でいる事は、またちょっと別なんですよね。

例えば、ある人物の襲撃を計画をしていた時に、仲間の1人が

「それは間違っている」

と考えて警察に密告したとします。

これは道義的には正しい行いですが、仲間からすれば裏切りです。

どちらが正しいかというのは意見が分かれる所ですが、獣の社会では道義的な正しさよりも裏切りの方が問題になる。

掟を守る事が優先されるわけです。

もし、異論があるなら正面からぶつかる。

何も言わねーなら同意と見なす。

仲間に何も言わずに勝手に不満を抱くのは、そいつが悪い。

これも獣の社会の習性ですね。

私はこれも含めた習性が抜けきらないから、似たような人に出会うとスゲー居心地の良さを感じます。

元陸上自衛官などに出会うと話が盛り上がるのは、このためだと考えています。

もし「嘘をつく子供」の登場人物が獣の社会の人間だったら、物語のような惨事は起きなかったと思います。

まあ、仲間として受け入れられるまでは時間がかかったりとか、荒っぽくなるとか、別の問題は起きると思いますけどね。

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